細胞も人間も「関係性」が大切

たった一個の受精卵から、60兆個もの細胞からなる人体ができあがるということの神秘、不思議。しかも、心臓の細胞を腎臓のところに植え付けても腎臓細胞の代わりにはならず、皮膚の細胞を小腸に移植しても機能しない。元は一個の細胞でも、もはや全然違うものに化けてしまう不思議。

たった一個の細胞が60兆個もの細胞の宿命をデザインしていることの驚異。これはすごいこと。本当かいなと信じがたくなるほど。
でもここで一つ注意しなければならないことがある。遺伝子はすべてをプログラムしてるわけではない、ということ。「関係性」をアテにして組んでいるということ。

一個の受精卵が例えば肝臓の細胞になるのは、周囲の細胞との「関係性」で決まる。細胞は最初、何の細胞になるのか決まっていない。しかし周りが「オレ、肝臓の表面になろうと思う」と言い出したら、「じゃ、オレの位置だと少し内側の細胞になるわ」と反応する。こうして「関係性」の中で決まっていく。

すごいと思うのは、遺伝子は、いずれ増えていく細胞が周りとの関係性を踏まえて心臓になったり肝臓になったり皮膚になったりすることを想定し、必要最小限のプログラムでそれを実現しているらしいこと。将来の関係性をアテにして、プログラムをしてあること。これはまさに神秘、驚異だと思う。

実際、このままなら肝臓になるであろう位置の細胞だけど、まだ肝臓細胞になりきってない(まだそこまで関係性が育っていない)細胞を別の場所に移すと、その「関係性」に影響され、心臓や腎臓細胞になったりする。しかしいったん「関係性」から肝臓細胞になる気満々になってしまうと。

別の場所に移しても、もはやそこの場所に似つかわしくない細胞になってしまうらしい。「よそ者」扱い。遺伝子はすべてをプログラムしているわけではなく、「関係性」をアテにしていることがよく分かる。

これは細胞の話だけでなく、一人の人間にもあてはまる気がする。人間は言葉を操ることができるが、日本人は日本語を話すように遺伝子でプログラムされているわけではない。言葉を関係性の中から学習できるようにプログラムされているが、関係性が違えば英語になったり中国語だったり。

人間は、家族の中で生き、社会の中で生きる際の「関係性」で言葉を獲得したり、トンカチの使い方やスマホの操り方を学ぶ。そうした「関係性」が用意されていなければ、遺伝子は無力。あくまで後天的な「関係性」によってそれらの能力が身につくようにできている。

受精卵がどんな細胞になるかは、ある種「後天的」とも言える「関係性」で決まるように、人間の能力も「関係性」の中で育まれる。ならば、関係性から学べない環境にあるのでは、遺伝子がどれだけ優れていようとも学習のしようがない。

人間には生まれもって素質というものがあるとは思う。私の同級生でかわいそうなくらいに「速筋」がないんだな、という友人がいた。短距離走はまるでダメ。だけど「遅筋」はしっかりしているようで、長距離を短距離走と同じペースで走ってもいけた。そういう身体的なのは、素質かもしれない。

ただ、知能的なものは、相当に関係性から学ぶもののように思う。
私の塾生で、言葉をほとんど話せない子がいた。名前はなんとか書けるけど、漢字は壊滅的。「はい」くらいは小さな声で言えるけど、こちらの言うことをあまり理解できない。コミュニケーションの成立困難。

なんでこんなに言葉が遅れているのか、お母さんに来てもらい、小さな頃の様子を聞かせてもらった。すると、その子を生む前に離婚し、実家で育てることになったけど、経済的に苦しかったので働かざるを得ず、忙しかったのでテレビの前に赤ちゃんのその子を置いていたという。

テレビの前に置いておけば静かにじっと見ているので、ついつい楽だからそうしていたらしい。
それでわかった。心理学の教科書でも紹介されているテレビ育児の典型例だった。テレビは画面が次々に変わるから子どもは見続けてしまうけど、言葉は一方的に流れるだけ。すると。

子どもはそれを「音声」とは認識できても、言葉としては認識できないらしい。言葉が発達するには、母親など大人との相互的なやりとりが必要。赤ちゃんが能動的に声を発し、オムツやミルクを求めていることが伝わったという「関係性」があってはじめて言葉が発達する。しかしその子はその関係性が欠落。

学年最下位の成績で、しかも言葉が決定的に遅れていたからどうにもならないと思ったが、破れかぶれの戦略で指導したら奇跡的に高校に合格。しかし言葉が理解できないのでは留年・退学は必至。そこで塾を卒業するにあたり、お母さんに来てもらって次のように話した。

「君は言葉が遅れている。高校に入ったら、友達に話させるな。アーでもウーでもいいから、自分から話しなさい。そして家に帰ったら、その日あったことをお母さんに話しなさい。お母さんは仕事でお疲れでしょうけれど、この子が言葉を取り戻すためです。付き合ってやってください。」

その後、全然音信がなかったが、高校3年生になったある日、塾にフラリと足を運んでくれた。そして高校生活で起きたことを説明してくれた。サッカーではキャプテンをつとめていること、生徒会長をしたこと、学年トップの成績であること、先生から大学進学を勧められていること。理路整然と。

これがあの、言葉もろくに話せない、ボーッとしたあの子なのか?と不思議に思った。顔もキリリとした、立派な青年に成長していた。恐らく、愚直にこの子は言葉を話そうとしたのだろう。それにより、言葉を急速に取り戻すことができたのだろう。

この子は、先天的に言葉の習得ができないのだ、学力は生まれもって低いのだ、とみなされても仕方ない状態だった。テストはほぼ0点。言葉も通じない。遺伝子がこの子の能力を規定しているとみなされても仕方ない状態だった。でも、そうではなかった。

「自分から言葉を話せ」と、卒塾時にかけられた言葉を愚直に守り、関係性を自ら変え、受動的な関係性から能動的な関係祭に変えたことで、言葉を習得し、大学進学を勧められるまでに成長した。能力を安易に遺伝子のせいにはできないように思う。

人間は関係性の中で成長していく。もしその関係性が学習を阻害するようなものである場合、成長は難しくなる。もし成長を邪魔せず、適度な刺激がある場合はどこまで成長するかわからない。安易に遺伝子のせいにするのは、大人の怠慢のように思う。

細胞も、人間も、関係性の中で育まれていく。ならば、関係性をどうデザインするかがとても重要なように思う。
サボテンは水浸しのところでは育たない。蓮は砂漠では育てられない。その植物に適した「関係性」(この場合は環境)が重要。これは人間も細胞も同じ。

遺伝子を親や教師がいじることはできない。けれど関係性はいかようにもデザインできる。その子に適した関係性をデザインすることを、考えていきたい。

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