学習において重要な「車輪の再発明」

なるべく「教えない」部分を残し、子ども自身の力で発見してもらう、という話をすると「車輪の再発明」という批判を頂いた経験が複数。わざわざウンウンうなって考えてようやく「発見」するよりも、チャッチャと教えて覚えて次に行った方がはるかに効率的じゃないか、という批判なのだと思う。

言われてみると、人間はなぜ赤ちゃんという無力な存在として生まれるのだろう?胎児の間は、昔人類の祖先が魚であった時代の名残であるエラが現れるらしい。胎児は、わざわざ人類の進化の過程を「生き直す」ことで生まれてくる。そんなことせずに、筋骨隆々で生まれりゃ効率的なのに。

でも、ヒトは無力な赤ちゃんで生まれてくる。いっそ知識だけでも親が学んだことがコピペされていれば効率的だろうに、そうはならず、昔親が歩んできたように、赤ちゃんは一つ一つを学んでいき、成長していく。人間の成長はもともと、非効率的な形で進むようにできているらしい。

で、「車輪の再発明」という批判は、「せめてすでに先人が明らかにしてくれていることはチャッチャと教えてもらって理解して、次に進んだ方が効率的じゃないか」ということを言いたいのだろう。けれどどうやら、人間の学習というのは、パソコン画面のコピペのようなものではないらしい。

そもそも、コピペした学習というのは、応用が利かない。児童心理学の実験で、早くにカードを使って言葉を教えたところ、その年齢ではありえないほど言葉を習得できたという。しかしイチゴの絵のカードをみて「イチゴ!」とは言えても、実物のイチゴを見ても言葉が出てこず、むしろ。

言語の発達が遅れがちになってしまう結果になったという。教え込み、覚え込むのは一見促成で早く習得できるようだが、応用が利かず、実用性がない知識が増えるだけで、むしろガラクタの知識が邪魔して実用的な知識を身に着けることを邪魔してしまう恐れがある。

学習が遅れている子は、実に面白い間違いをすることがある。速度を計算するのに、時間÷距離で計算したり。大阪では「はじき(速さ、時間、距離)」という覚え方があって、分母と分子を間違ってしまう子が少なくない。そのため、答えが合ったり間違っていたり。点数がとれるかどうかは時の運。

こういう子を指導する場合、私はあえて「迷走の旅」に付き合うことにしている。「速度ってどうやって計算するん?」と問うと、そういう子は半々の確率で「距離÷時間!」と正しく答えることがある。でもこの子は理解が怪しいな、と思ったら、「え?ほんま?それでええの?」と揺さぶる。すると。

「あ、間違えた。時間÷距離やわ」と平気で言い直す。私は「え~、そうかなあ」ニタ~ッと笑う。子どもは動揺し、「え、でも『は、じ、き』やろ?速さは時間と距離で求めるんやろ?」
「まあ、そうなんやけど、距離÷時間、時間÷距離のどっちなん?」と聞くと、「ええ~っ?わからん!教えて!」

「教えたってお前、また忘れるやろ。ちいと考えてみい」と、しばらく放置。10分くらい、「ええ~?」と言いながらウンウン悩んでる。そろそろ声をかけてやるか、と、「で、どっちなん?」と聞くと、たいがい「わからん・・・どっちなん?教えて!」と来る。私は教えずに、「ほんなら、そうやなあ」

「同じ速度で歩いている二人がいて、一人は短い距離、もう一人は長い距離歩いたら、どっちの方が時間かかるん?」と、体感的に聞くと、長い距離の人、と答えられる。「正解。ほんなら、同じ距離を走る人がいて、短い時間でゴールする人は、速いん?遅いん?」と、ジェスチャー加えながら聞くと。

きちんと正しく答えられる。「1時間で10キロ走れる人と、20キロ走れる人、どっちのほうが速いん?」と聞くと、20キロの方、と答えられる。こうして、時間、距離、速度の簡単な問いを繰り返し、「はじき」みたいなテクニックから離れ、体感的な問いを繰り返す。

「1時間で50km走る車は、2倍の2時間やったらどれだけ走るん?」と聞くと、「倍の100kmやな」と答えられる。「1時間で50km走る車は、同じ速度やと2時間で100km走るんやな?」と聞くと、そう、と答える。「ほんなら、2時間で100km走る車の速度はなんぼやねん」と聞くと、ええ~?と混乱する。

そこでまたしばらく放置。速度、距離、時間の関係の簡単な問いをぶつけては考えさせ、しばらく放置、というのを繰り返すうち、子どもは、それぞれの関係を体感的に理解し始める。トータルで1時間くらい旅を続けると、「もしかして、速度は距離÷時間・・・?」と、今度は体感を伴った答えが出てくる。

「そうや」ニヤリと笑うと、「俺、最初に距離÷時間って言ったよな?合ってたやんか!」と食ってかかってくる。「簡単に動揺するからや」と笑い、「ほんなら次の問題」と言って、また問題を出し、それで正解を出してきても、また「ええ~?ほんま?」と笑い、動揺させる。

こうして「迷走の旅」を3回くらい続けると、貝を重ねるごとに迷走時間は短くなり、最後には「もう先生には騙されん!速度は距離÷時間や!」と言い返すようになる。根拠を尋ねても、「はじき」に頼るのではなく、「1時間で進める距離が倍になるなら速度は倍のはずや!」と体感的に答えられるように。

「この先生はわざと動揺させることがある」と分かると、私からの動揺させる言葉かけがあっても、子どもはどうやったら迷いなく計算できるか、その確たる根拠を見つけようとする。「はじき」みたいな、どれを何で割るのかわからなくなってしまうようなものでは動揺を止められないことに気がつく。

私が何度も体感的な問いかけをするうち、子どもは距離や時間、速度というものを体感的に考えるクセがつく。同じ速度なら時間をかけるほどたくさんの距離を進めるし、同じ時間なら速度が速いほど遠くの距離を進める、というように。こうして、三つの関係を体感的に理解すると、間違えなくなる。

体感的に理解し、考える方法を子ども自身が「発見」するまで、私は「迷走の旅」に付き合い、問いかけの形で考え方のヒントを示し、まだいい加減な即席の方法でごまかそうとしているな、と思ったら動揺させ、揺さぶり。こうして、どれだけ揺さぶっても揺るがない、確たる方法を発見するように導く。

こうして、「迷走の旅」を経て体感的に理解した子どもは、もう速度の問題で変な勘違いをすることはなくなる。しかも、体感的に理解できているから応用が利く。難しい問題もいったん簡単な数値に置き換えて構造をまずざっくりと把握し、それから解く、という応用力が身につく。

「速度の計算は距離÷時間」と教え、それをただ暗記させようとするだけでは、多くの子どもには身につかない。この速度の問題がアヤフヤな子どもは結構多い。アヤフヤなのは、体感的に納得できる「発見」を、子ども自身に味わわせていないからだと思う。

「迷走の旅」を経験した子どもは、「先生からの揺さぶりがあってもこの方法なら正しい解き方を思い出せるぞ」という工夫、発見を自らする。「あれま、揺さぶっても動揺せえへんなあ」と驚くと、ドヤ顔する。「もう先生に騙されてたまるか!」と笑う。

先生の攻撃をしのぐ武器を手に入れた!という感じなのだろう。「迷走の旅」は、私というモンスターを倒すゲームのようなもの。そのための武器を開発するというゲーム。そうして自分の力で発見した手法は、二度と忘れない。本当の力として根付く。

人間の学習というのはどうやら、自分自身で納得できる方法を「発見」する必要があるらしい。胸の奥のどこかで納得できて初めて、応用できる知識となる。使いこなせる知識となる。「車輪の再発明」ではないけれど、「車輪を発明する追体験」は、学習においてはとても大切であるらしい。

それに、考えてみると、車輪を自らの手で作るのはべらぼうに難しい。そもそも、きれいに丸い円形の車輪を作ること自体が極めて難しいだろう。作れても強度がなかったり、回しているうちにすぐゆがんだり。スポークもうまく作れないだろう。車軸も難しい。百人が百人とも、まともに作れないのでは。

ということは、私たちは車輪が分かっているようでいて、実は分かっていない、必要な知識がないということが分かる。そして、必要な知識を知るためには、「作ってみたけどうまくいかない」という失敗体験が非常に有効。「何が足りなくてうまくいかないのか?」という問題意識が、観察眼を鋭くする。

うまくいかないという失敗が観察眼を磨き、観察するから気づきを得、気づきがあるから改良ができる。目の前に見本の車輪があっても、その通りに作れるようになるまでに、相当の試行錯誤が必要になるだろう。そしてその試行錯誤の中で、多くのことを学ぶだろう。

その体感的な学びは、最先端の開発をするうえでも役に立つ。「これをすれば何が起きるのか」が、豊富な失敗体験から予測できるから。失敗の体験は、予測能力を高める。応用力がつく。

「迷走の旅」をあえてして、その中の失敗体験と発見が、理解力、応用力を劇的に上げることを考えると、コピペ的に「教える」というのは実は、もしかしたら有害なくらいなのかもしれない。本物のイチゴを見て「イチゴ」といえない子どものように。

大人が教えるのではなく、子ども自身が本や教科書を見て理解しようとするのは、能動的な取り組みであり、頭の中でいろんな試行錯誤をして納得しようとするので、「教える」とはまた違った身につき方をする。だから、本や教科書を子どもが自発的能動的に読むのは、とても良いことだと思う。けれど。

「読ませる」のはどうもうまくいかない。強制されたことはイヤイヤやっているためか、表層的にしか理解しない。納得しようという気持ちがなく、やっつけ仕事になる。子ども自身が理解したい、という気持ちでないと、読むという行為は理解につながらない。

「迷走の旅」は、教えてくれるはずの人が教えてくれないどころか、揺さぶり、動揺させようとするので、教科書からなんとかヒントを得ようとして子どもは読もうとする。この場合、理解力が全然違ってくる。読ませようとするのと違って。

どうしたら子どもが深く理解するのか。その心理にまでわけいって、接し方を工夫する必要がある。その中で、「車輪の再発見」は、とても楽しいゲームだし、何より様々なことが身につく。私は、「車輪の再発見」を、子育てにおいては否定的に捉える必要はない、と考えている。

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