「善意無罪」考

「善意無罪」考。
良かれと思って、善意で行われた行為は、たとえ結果がどうであろうと善行であり、なんら責められるべきではなく、もし責める人間がいるとしたらそれは人非人であり、悪魔か悪人である、という考え方、反応がある。私は、これ、問題があると感じている。

私は、「その行為が善意から行われたかどうか」は規準にすべきでなく、「その行為の結果によって悲しむ人が減らせたかどうか」を規準に据えるべきだと考えている。そうでないと、善人の顔を被ったひどい行為を阻止することができないから。

貧しい発展途上国に「ろくな服もない人達に服を送る」ことは、善意から始まっているように見えるし、きれいで未使用新品の服が行き渡るのだから、よいことのように見える。しかし衣料品を作る軽工業を破壊し、衣料販売店の雇用を破壊する。果たしてこれがよいことなのかどうか。

そもそも、「貧しい人達に服を送ろう」が善意から始まっているのかも疑わしい。先進国で衣料品が在庫であふれると、衣料品全体の値下がりを招きかねない。衣料品の値崩れを防ぐための在庫処分という行為を、善行の顔を被せてカモフラージュした可能性が否定できない。

アメリカは昔、アフリカに大量の小麦を食料援助と称してアフリカに送ったことがある。それにより、アフリカの穀物生産農家が大打撃。穀物を作っても誰も買ってくれない。農家は貧しくなり、外国資本のプランテーションで働かざるを得なくなったり。このときも。

実はアメリカにとって、在庫処分でしかなかったりした。これに善行の顔を被せて粉飾したものだった。貧しい人にタダで食料を送ることは気前がよいように見えるし、善のように思える。しかしそれが長期化すると、穀物農家が生きていけなくしてしまう。

こうした、善意の顔を被った行為で悲劇が起きる実態を知ると、規準を「善意から始めたかどうか」に置くのではなく、「悲しむ人を減らせたかどうか」に置くべきことがわかる。

他方、後者の規準を採用する場合も、気をつけなければならないことも。良かれと思って始めた行為であるなら、すぐに改めることだけ求めて、あまり厳しく責めないこと。人間、良かれと思って行った試みが逆の結果になることがよくある。それはやむを得ない。人間なのだから。

けれどその代わり、すぐ改めること。悲しむ人が増えることがわかったら、たとえ善意から始めたことであっても、即座に改めること。そして周囲の人間は、改まりさえすれば、あまりしつこく責めないこと。むしろ、すぐに改めたことを評価すること。

なぜ「善意無罪」という、一種の開き直りが生まれるか考えると、恐らく、失敗に対しあまりに厳しく責め過ぎだからだと思う。良かれと思って始めたのに、まるで悪意から、欲望に任せて始めたかのように責められては、改める気が失せてしまう。どうせ責められるなら。

善意から始めたことだから何も悪くないと開き直り、何なら悲しみを生んだ事実も認めず、都合の悪い話は矮小化し、都合のよい事実だけ針小棒大に評価し、自画自賛する、という、無茶な行為を呼び覚ます。これは、過度に責めるという行為が生んだ、やむを得ない人間心理。

善意無罪を発生させないためには、「責める」という考え方を改める必要がある。誰かをなじり、責め立てて自分を一等上の人間に配置したくなる欲望を抑え、「自分も過ちをおかす人間」として対等に捉え、過ちに気づいたら改めればよいのだ、という思考にシフトする必要がある。

・規準を「悲しむ人が減らせたかどうか」に置くこと。
・失敗を強く責めないこと。ただ指摘するのにとどめること。
・過ちに気づいたらすぐに改めること。
・改めたことを評価すること。
・相手が嫌がるなら、(善意を口実にして)強いないこと。


これだけを気をつければ、「善意無罪」は減り、過ちをいたずらに続けることを減らせるように思う。

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