「基礎練習」考・・・「苦難の果てに輝かしい未来がある」という文化の終焉

ピアノの話で、基礎練習がいかに大切か、という点を熱弁される方が少なからず。私も基礎は大切だと思うのだけれど、基礎も楽しんで取り組めるようにした方がよいと考えている。つらく苦しく基礎をやる必要はない、と考えている。

一部指導者に、「基礎はつらく苦しいもの、それでもやらなくちゃいけないもの」という思い込みがあるような気がする。きっとその人は、自分自身が面白くないと思って基礎に取り組み、後でその必要性に気がついた、という経験をお持ちなのだろう。いつかその大切さに気付く日が来る。その日まで、と。

しかしまあ、それに耐え忍んでいる間にやる気が枯渇し、やめることになったら本末転倒な気がする。私が思うに、基礎は必ずしもつらく苦しいものではないし、楽しいものとしてデザインすることは可能だと考えている。

私の後輩で、ひたすら微生物を土からとってくる、という地味な卒論を担当した学生がいた。その学生が教授に言ったのは、「100株見つけたらアイスキャンデー1本おごってください」。100株見つけては積み重なっていくアイスキャンデーの棒。目に見えて作業が進んでいることが分かった。楽しい。

高杉晋作の歌で「面白きこともなき世を面白く」というのがある。もじれば、「面白きこともなき基礎面白く」は可能。それは指導者側の工夫次第でどうにでもなる。面白くないのを面白くないまま続けるのは苦行でしかないが、そこにゲーム性が混じるととたんに面白くなる。

マンガ「スラムダンク」で主人公は、ひたすらシュートの基礎練習をするよう指導者から言い渡される。もし、ただ「続けろ」と言われただけだったら、主人公もどこかでつまらなくなったかもしれない。しかし指導者が言ったのは「1万回投げなさい」。すると主人公は「その程度でいいのか?」

特に男の子は、挑発すると乗ることが多い。「これはまだお前には無理だろうが」というと俄然やる気を出すことが結構ある。それをやりきって鼻を明かしてやる、と企む。これも一種のゲーム化。

私は、基礎をやらなくていい、とは言わない。基礎だからと言ってつらく苦しく取り組む必要はない、とはいう。基礎でも楽しく面白く取り組めばいい。私はそう考えている。

ところで、日本はスポーツでも何でも、「道」、求道的になりやすい、という指摘が結構あった。かつてのピアノもそうだったのではないかと思う。道を究めるためには「楽しむ」なんてもってのほか、つらく苦しい修行を乗り越えて初めて成功の道は開けるのだ、というストーリーが好き。

なんで日本は何でもかんでも求道的になってしまうのか?私の仮説では、昔の日本人は「つらく苦しい繰り返しを楽しんでいたから」。
昔の日本人は、少なからずが農家だった。江戸時代には8割、第二次大戦でも半分くらいが農家。学校から帰ったら農作業の手伝いが待っていた。

そうした農業文化の中だと、部活とか芸術とかは、事実「クソの役にも立たない」(クソは肥料として役に立つ)ものだったのかもしれない。そんなクソの役にも立たない、農作業以外のことをやれる時間が、昔の若者にしたら特別な時間だったのかも。だから求道的でも楽しめたのではないか。

もう一つ、求道的なことそのものを、多くの日本人が好きだった可能性もある。これも、国民の半数かそれ以上が農家だった、という社会状況と関係している気がする。日がな一日雑草抜き、それが何日も、というのは、農作業ではザラ。ひたすら耕すのを何日も、というのも多い。しかしそうした労苦が。

たわわに垂れる稲穂となることを、農家の子どもは体験的に知っていただろう。この苦労がコメになるのだ、ということを、幼いころから体験的に叩き込まれていたから、地道で面白くもない基礎練習をひたすら続ける辛抱強さを、多くの日本人が持っていたのかもしれない。

こうした農民文化が、つらく苦しく基礎練習を積むこと自体を、どこかで楽しめるものにしていたのかもしれない。むしろそうした苦難があった方が喜びは大きくなる、と、昔の日本人は考えていたのかもしれない。そちらの方がウケるから、多くの習い事が求道的になったのかも。

しかし今の日本人は、ほとんどが農業を知らない。今や日本の農業人口は152万人。残り1億2千300万人以上は非農家。毎日腰をかがめて草取りをしなければならない体験もない。その結果、稲穂が実るのだという体験もない。苦労の果てに栄光をつかめる、ということが感覚的にわからない。

そうした社会の変容が起きているのだろう。それをうけて、多くのピアノ教室も、生徒が楽しんで取り組めるような指導法にシフトしているのだろう。

年配だと「今の若者は辛抱が足りない」という人もいる。けれど、辛抱する意味が分からない。そんなことは体験から欠けているのだから。理解させようとしても無理。いまやほとんどの日本人は、毎日腰を曲げて草取りすることが稲穂につながる、という体験を持っていない。場合によっては、農家でさえ。

では、今の若い人は辛抱することができないのか?というと、私はそうは思わない。人間、楽しいと辛抱を辛抱とも思わない。考えてみたら、昔の農家だって、今の辛抱が豊作につながると思うから耐えている。ある意味、辛抱も楽しんでいた部分がゼロではないように思う。

幼児は、「これ何だろう?」と不思議に思い、熱中すると、食べることもトイレに行くことも忘れて、ずっとそれに取り組むことが多い。後でヘトヘトに疲れることも。ものすごく辛抱しているともいえる。しかし子どもはあくまで、それを楽しんでいる。遊んでいる。

人間というのは、夢中になると疲れを忘れて熱中する。長時間取り組み続ける。単純な繰り返しに思える基礎も、工夫の余地がたくさんあり、楽しくてならない。それについては以前もまとめたことがある。
https://note.com/shinshinohara/n/n16fdc10d7035

人間は、心構えをほんの少しデザインするだけで、つらく苦しかったものが楽しくてならないものに変わったりする。その逆にしてしまう人が結構多いのだけれど、このことを意識すれば、つらい作業だったはずのものが楽しくてならないものに変わることも非常に多い。

同じことの繰り返しに見える基礎練習でも、私は工夫の余地がたくさんあると考えている。こちらに力を加えてみたらどうだろう?足の位置をずらしてみたらどうだろう?同じ繰り返しに見えても、ほんの少しの工夫で劇的に効率や成功率が変わったりする。それが楽しい。

基礎練習は同じことの繰り返しだから工夫の余地がない、という「思い込み」が、基礎練習をつまらないもの、つらくて苦しいものに変えてしまう大きな原因のように思う。一見、単純に見える動作の中にも、驚くべき工夫を凝らすことは可能。その中で驚くべき発見をすることも可能。

指導者は、子どもと話し合う中で、「思枠」(思考の枠)をずらし、どんなことも楽しんで取り組める「思考のデザイン」をすることがとても大切なことのように思う。昔の日本人なら、つらくて苦しいものにしたほうがウケたかもしれないけれど、農民文化が忘れ去られた今の時代はもうウケない。

今の子どもたちが置かれた環境で、いかにして楽しく取り組めるようにするか。それが指導者の腕にかかっているのだと思う。何より、「楽しむ」ことを第一に考えていたら、どうすればよいかはおのずと見えてくるように思う。これからの指導の軸は、そこにあるのではないか、という気がしている。

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