生きることを楽しむ達人

昨年の6月頃の新聞に、進学校や有名大学に進学すると、選択肢が広がると思っている人が多いけど、むしろ選択肢を狭めているのでは?という記事があった。私も同感。有名大学に進学したばかりに面倒くさいことになる場合がある。

もう高齢者といえる年齢になっても、出身大学のことを言う人がいる。オレは○○大学出だ、軽く見るな、とジャブのつもりで言ってくる人がいる。しかしたかだか20歳以下の若造の時の学力を自慢しても仕方ないように思う。けれど、そこに「オレは一味違うんだ」という根拠を求めてしまうらしい。

変に高学歴を求めた結果、自分の将来を上(?)の方に見定め、それ以下は「自分以下」という価値規準を持ってしまい、そしてうまくいかなかったとき、自分を落伍者として認めたくないがために、自分が光り輝いていた時期の自慢をしたくなってしまうらしい。

オレはこんなところでくすぶっている人間ではないんだ、本来はもっと活躍の場を与えられてしかるべき人間なんだ、しかし自分を罠にはめる人間がいて…と、自分を重要人物だとみなしたくなる。この心理は分からなくはない。しかし、社会的地位で人間を序列化する思考がある限り、脱出は難しい。

父はディオゲネスのエピソードが大好きだった。ディオゲネスは乞食のような格好をして(実際、乞食して生きていた)、樽の中で寝ていた。そこに、ヨーロッパを制覇する勢いのアレクサンダー大王が現れた。いくら呼び出しても来ないから、自分から足を運んでみたのだった。

「先生、私に教えてくれるのなら、宮殿を立てて差し上げますよ。何か望みのものはないですか」とアレクサンダー大王は尋ねた。そしてディオゲネスの答えは。「ひなたぼっこの邪魔だから、そこ、どいてくれる?」それだけ言って、また眠ってしまった。

アレクサンダー大王は、帰り道、従者に興奮気味にこう話したという。「私がアレクサンダーでなければ、ディオゲネスになりたい」。ディオゲネスはその後、何かの手違いで奴隷になってしまったのだけれど、奴隷になってもそれなりに楽しく生きたという。ディオゲネスは楽しんで生きることの達人だった。

アレクサンダー大王は、社会的地位で言えば、圧倒的第一位の人。みな、アレクサンダー大王にとりいって、少しでも社会的地位を高めようと躍起になっていたのに、ディオゲネスはそんなことに目もくれず、お日様の当たるようにだけ願った。それがアレクサンダーにとっては衝撃だったのだろう。

社会的地位にこだわるのは簡単だけれど、社会的地位にこだわらず、人生を楽しむことは難しい。だったら、人生を楽しむほうに挑戦してみた方が、ゲームとしては挑戦し甲斐があるような気がしている。

中国残留日本人婦人の番組を見た時、多くの人が日本に帰れなかった不幸を嘆く中で、一人だけ、ニコニコ笑ってばかりの女性がいた。しかしその女性も、壮絶な体験をしていた。満州からの逃避行で実の父が亡くなり、義母と腹違いの弟で港に着いた。しかし持っているお金は二人分の船賃。

当時14歳だったその女性は義母に向かって「あなたは跡取り息子を日本に無事に連れ帰る責任があります」と言って二人が日本に帰るように言い、自分は中国に残った。一文無しで、14歳の女の子が、日本への憎悪が渦巻く当時の中国で。

その女性は、自分の口からは何も語らなかった。しかし日本に帰国した弟が、涙をボロボロ流しながらその時の経緯を語って事実が分かった。取材班は改めて女性を取材すると、女性は涙を浮かべたが、すぐに笑い飛ばし、「あら恥ずかしい、こんなことで泣いたりなんかして。お釈迦様に笑われるよ」。

「もし日本に帰っていたら」なんてことを一切考えず、自分の置かれた環境を楽しく生き抜く。どうやらその女性は、そう心に決めて生きてきたらしい。すごいなあ、と、私は圧倒された。こんな風に生きられたらかっこいいなあ。

社会的地位を求めることは、別に悪いことではないと思っている。それによって社会的影響力を得て、人のお役に立つのなら、それはそれでよいこと。ただ、自分がそこに行けなかったことを恨み、社会的地位の高い人を呪うのって、ちょっと違うかなあ、と思う。

私は、ディオゲネスになりたい。あるいは、尊敬する中国残留日本人婦人のようになりたい。置かれた環境で楽しく生き抜く。こんなしぶとくてカッコいい生き方、あこがれる。

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