Random thoughts.

小説はほとんど読まない。苦手だ。

そんな僕が唯一、繰り返して読んだ例外的な作品が、井上靖の『あすなろ物語』だった。

その第一話には「深い深い雪の中で」というタイトルがついていて、13歳の主人公・鮎太と深い関わりを持つ冴子という19歳の、少女から大人になる途中の女性が出てくる。

僕は彼女に憧れた。いつか、冴子という名の女性と出会えればいいな、と思うほどに。まだ会ったことはないけど。
ちなみに、外国人の名前としては Rachel という名前が大好きだ。なんか、語感(音感)が好きなんだよね。一度 New Zealand 出身の Rachel という人と本当に知り合い、ちょっとあったことがあるけど、うまくいかなかった。どうしてるかなぁ?

それはさておき(笑)、冴子は鮎太に、「あすなろ(翌檜)」という木の名前の由来などを教えるのだが、ある晩、鮎太が眠る枕元に来て、次のような言葉を呟く。

「トオイ、トオイ山ノオクデ、フカイ、フカイ雪ニウズモレテ、ツメタイ、ツメタイ雪ニツツマレテ、ネムッテシマウノ、イツカ」

そして本当に、ある大学生と心中して雪に埋もれてこの世を去るのだ。
たぶん初めて読んだのが中学生だった僕には、結構な衝撃だった。

いま思えば、あのシーンが深層心理の中に、ある意味憧れのようにまさに“深く深く”息づいているのかもしれない。それは、“澱(おり)”のように澱(よど)んだものなのか、それとも雪のように昇華された美しいものなのか、わからないが。

僕が卒業した都立国立高校(国高/くにこう)は、3年間クラス替えがなく、担任は持ち上がりで同じ人だった。
そのN先生は、本当は小説家か物書きになりたかった人らしいが、“足掛け”のつもりで高校教師になったと言っていた。
ところが、彼が国高に赴任した同じ年に入ってきたある女子生徒が、2年生17歳のとき鉄道で自殺するという衝撃的な事件が起きる。彼女はN先生の担任の子でもなく、彼にとって「ある生徒」に過ぎなかったのだが、なぜか先生に遺書を残すのだ。
これで、N先生は足掛けでは居られなくなる。教師であることと向き合い、そして僕らの卒業時に定年退職していった。最後の生徒たちでもあった僕らは、印象に残る生徒でもあったらしい。

先生が自費出版した『リュープリンとの旅』に、そのことがかなり詳しく書かれていて、彼女の、その年にしてはかなり無気味な、しかしなんとなく心を掴まれる詩がなん編も載っていて、実は他の章はあまり読んでいないのだが、ここには惹かれるものがあり、読み返した覚えがある。

いまになると、僕の中ではなぜか、「深い深い雪の中で」とシンクロするのだ。

国立高校は、東大や京大、もちろん早稲田や慶應義塾などに毎年多数の合格者を出すほどの、言ってはなんだが都立のエリート高なのだが、中には僕のように、中学のときは「よくできた子」でも埋没して落ちこぼれ、底辺を歩く人間もいる。

それでも、これまた若くして難病で亡くなってしまったのだが、唯一無二の親友と呼べる友人を得ることができたし、それなりに楽しい高校生活だった。
しかし、本当に僕の居場所だったかとあらためて自分に問えば、そうでもなかった気もするのだ。自分自身の“鏡”のような気もするけど、やはり何かみんな冷たかった気もするんだよね。

自分自身も病気になり、そこそこ老いて、死の影を見ることが多い。
僕のように、本当にまったくなんの成果も出したことがない人間が、のうのうと生きていて良いのかと毎日のように思う。生きるために生きているような人生だし。なら死んでも同じだろうと思うわけ。
唯一、猫のお世話係としては存在意義はあるのかな、とは思うけれど、それ以外はゼロだ。たぶん、日本の同年代の男性の中で、僕以上に価値がない人間はいないだろうと確信する。

いつ死んでも構わないとも思うんだが、とりあえずまだ5匹いる猫が元気なうちは死ねないし、さっき言った、若くして亡くなった親友の無念を思うと、自分で死んではいけないと強く思う。猫と彼に生かされている気がする。
僕が自ら命を絶ったことを知ったら、おばさん(彼のお母さん)が激怒するだろう。自分の母がそうであるように(いや、母は僕の体たらくをすでにわかってるけどw)、おばさんは電話で話すといつも僕のことをまるで亡くなった息子を褒めるように「しんちゃんは本当にすごい人だったから、いまもすごいご活躍で……」といまだに褒めてくれたりする。たぶん、ヤツが母親にそう言ってくれてたんだろうなぁ。

新約聖書の「ルカによる福音書」の中に、“善きサマリア人(びと)のたとえ(Parable of the Good Samaritan)”というのがあって、僕はこれが好きだ。
ハリウッドの映画を見ててもときどき出てくるので、知ってる方もいるかもしれない。

こんな僕でも友人はいて、中にはネットでしか知らないのに、僕には真正面から向き合ってくれる人がいる。
じつはきょうもある人のところに、ポストに反論しつつ結構ネガティヴなことを書いたんだけど、それにも関わらず、真摯に向き合って前向きなアドバイスをくれた。
自分ではわからない自分の良さを、そういう人から教わることもある。その人はいまだに会ったこともないんだけど。
なぜかそんなメンターみたいな女性の友人が何人かいる。そのひとりに「あなたはなんだか危なっかしくて見てられないのよねぇ。まるで出来の悪い弟みたいで」というような趣旨のことを言われたことがある。ちなみに彼女は歳下だ。余計な情報を書けば、背が高くて僕がこれまで出会った女性の中で、一、二を争う美人(笑) ちなみに一番は、息子が言うのもこそばゆいのだが、我が母。若いときの写真を見てもらったら納得すると思うけど(^◇^;)

そうそう、癌が見つかってとりあえず手術をして、なんとか成功したとき(あとで、もう一回やる必要が出たけど)、絶対死ぬと思っていたので(笑)この際自分自身に何かご褒美をと思い、Apple Watch でも買おうかなとFacebookに書いたら、その費用分のカンパを送ってきてくださった方がいた。その人も会ったこともないんだよ。
でも、なぜか心が繋がってる気がする。「遠くの親戚より近くの他人」みたいな言い方があるけど、「近くの顔見知りより会ったこともないけど気の置けない他人」みたいな感じだ。
いまだに、Apple Watchを見ると、会ったこともない彼のことを思い出して心の中で感謝している。その人も結構持病持ちで大変なので、良くなりますように、と祈りながら……。

そうそう最近だと、サーキットで救急車を呼ぶ(呼びそうな)騒ぎがあった(^◇^;)
レースを見に行ったサーキットで、暑い中を久しぶりにかけずり回ったら見事にバテて、駐車場で倒れかけたんだけど、それを書いたら本気で心配してくださった方が何人かいて、サーキットに倒れてる人がいないか調べてくれるよう要請までしてくれたらしい。
Apple Watchが心機能の異常を報告してきたんだけど、そのタイミングが凄すぎた(ある意味、マズすぎた)んだけど、そのことをちょっと書いたつもりだったんだけどね。
いゃ〜、ご迷惑をおかけしました。

話が長くなってきたけど、いずれにせよ、そういう“善きサマリア人”は実際にいるのであって、まぁ、世の中や人生は捨てたもんじゃないのかもな、という気もしている。

それで思い出したんだけど、好きな映画のひとつに『Pay It Forward』というのがある。邦題は『ペイ・フォワード』だけど、文法的には間違ったことになるw
主役のひとりが不祥事を起こして、もう見られそうにないのが残念だけど、それとは関係なくいい映画だ。日本のように出演者が不祥事を起こしたからと言って、上映禁止みたいなことにならないのはいいことだ。
スジを簡単に言うと、天才子役(だった)ハーレイ・ジョエル・オスメント演じるもうひとりの主人公が、人から受けた恩をその人にではなく、別の人に返すしていく、という運動を始めて、その顛末を描いたお話。最後は悲しく残念な結果に終わるんだけど、この考え方がとてもいいなと思った。

まぁ、人から恩を受けても返せないことはあるし、ぶっちゃけ、誰から受けたのか忘れてしまうこともなくはない(よくあるw)
それを誰かに返せば、巡り巡って自分にも返ってくるだろうし、社会は良くなるって考え方。
日本にも「因果応報」という言葉もあるし(どちらかと言うといまは悪い意味で使われることが多いけど)、「情けは人のためならず」なんて言葉もある。それも最近「情けは人のためにならないから、かけてはいけない」と間違って解釈してる人が結構多いらしいが。

いまは、経済的にもとても返せたもんじゃないんだけど、こんな僕でも、いつかは、という意志はある。
宝くじ(……買ってないけど)で10億円も当たったら、8億くらいは犬猫保護活動に使うよ。
ただ、ちょっといい思いもしたいので、1億円は散財するかな(笑) 取り急ぎ、フェラーリ買っちゃうww あと、マツダの何かと電気自動車1台。日産アリヤか、ルーシッドかな。後者は日本に入ってきてれば、だけど。それかホンダとソニーの共同開発車かな。
……とまぁ、取らぬ狸の皮算用。

しかし、なんですかね。この文章(笑)
頭の中で考えてることをダダ漏れで書いてみた感じ。

なにかまた思いついたらちょこちょこ追記するかも。
いつもいろいろ改変してますが。

おっともう午前4時過ぎ。まったく眠くないけど、風呂入って寝ます。

ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。
こんなヤツですが、今後ともどうぞよろしくお願いします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?