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真理を探究しています。私は善の定義をしました。よろしければ下記のHPを読んでくださいね…

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真理を探究しています。私は善の定義をしました。よろしければ下記のHPを読んでくださいね。 https://ameblo.jp/shinwood/entry-12277885699.html

最近の記事

キリストの石打の刑を絶対善で考える

聖書にはキリストが石打の刑で死刑になるはずだった姦淫女を救ったと言う有名な話があります。 「律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、イエスに言いました。『先生、この女は姦淫(浮気)をして捕まえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたならどうなされますか』 彼らはイエスを試したのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれど

    • これが善、これが悪と決め付けてはならない

      今回は少し説明するのは難しく誤解を与えるかもしれませんが、大切な事ですから書いておきます。ここで言いたいことは「これは善、これは悪と決め付けてはならない」と言うことです。これは子供に教えるにはまだ早いのですが、大人であれば必ず理解しておかねばならないことです。 みなさんは戦争は悪、核保有は悪、憲法改正は悪などと決め付けてはいませんか? また平和は善、人権は善、民主主義は善であると決め付けてはいませんか? 勿論、普段はそのように考えても良いのですが、それらを絶対であると考えて

      • 人権とは何か?を考える

        法律を学んだ人たちと議論していると、彼らは人権こそ至上の理念だと考えています。とにかく彼らは一番大事なものは人権であると頑なに信じて主張してきます。「民主主義の本質は人権だ!」「死刑など非文明的で人権侵害だ!」と何でもかんでも人権を絡めてきます。もちろん西洋人から与えられた人権です。 私たち一般的日本人は「我々人間は神の子であり、生まれながら自由や理性や人権を授けられているのだ」などと言われてもピンときません。何故、彼ら人権屋は神から授けられたという非科学的な人権を疑おうと

        • この世は「正しい」さえ知ればそれで充分である

          私のブログに対して「よくもまあ、飽きもせず善ばかりを書き続けられるものだ」という批判もありますが、私は善ぐらいしか皆さんに伝えられるような知識もないので善に特化しているのです。ですから善にあまり関係のない投稿はすべて削除しました。しかし善、つまり「正しい」さえ分かれば、この世の中それで充分なのです、それですべてが調うのです。そのことを早く分かってほしいものです。 私はとにかく善、つまり(道徳的に)正しいとは何かを皆さんに分かってほしいのです。それさえ分かれば皆さん、良い社会

        キリストの石打の刑を絶対善で考える

          自由とは正しいから自由なのである

          今回は愛知県の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ 表現の不自由展」についてどうしても言いたいことがありましたので投稿しました。 表現の自由などの「自由」という言葉について、まだまだ世間では正しく理解されていません。私は漢字はこう書くから、その意味はこういう意味なのだ、というのはあまり好きではありませんが自由とは「自らに由る」と書きます。由るのは何に由るのか、それは良心です。良心とは本能であり、みんなが生まれつき持っている善なる心です。自分の善なる心に由るのが本当の自由なのです。

          自由とは正しいから自由なのである

          「無知の知」を善の定義で考える

          ソクラテスは産婆術という問答法を考えました。これは対話して相手の答えに含まれる矛盾を指摘して、相手に無知を自覚させて自分自身で真理に導く方法です。 このソクラテスの「無知の知」について少し考えてみれば、ソクラテスは「賢人たちは本当の善(絶対善)とは何かを知らない」と言うことを知っていたのでしょう。また善はよい意味の言葉にはすべて内包していて、善こそ全ての良い言葉(愛、幸福、尊厳、勇気などなど)の本質だと言うことも彼は知っていたのではないでしょうか。 ゆえにソクラテスは当時

          「無知の知」を善の定義で考える

          サンデル教授のトロッコ問題

          ハーバード大学のサンデル教授が良く用いるトロッコ問題は「線路を走っていたトロッコの制御が不能になった。このままでは前方で作業中の5人が猛スピードのトロッコに轢き殺されてしまう。この時A氏は線路の分岐器のすぐ側にいた。A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもB氏が1人で作業しており、5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏は路線を切り替えるべきか否か?」という問題である。このトロッコの問題を善の定義で解いてみます。 善の定義では

          サンデル教授のトロッコ問題

          デカルトの「我思う、ゆえに我あり」について考える

          デカルトの「我思う、ゆえに我あり」に対して、いろいろと屁理屈をつけて否定しようとした哲学者たちもいましたが「真理」を否定することなどできないのです。「我思う、ゆえに我あり」の意味するところは、あらゆるものを否定しようがそれを否定している「思い」だけは絶対に否定できないと言う事なのです。つまり「我思う、ゆえに我あり」は「思いがある」と言う事なのです。そしてこの「思いがある」だけは誰であっても絶対に否定することはできないのです。 またこの「思い」と言うのは理性的な思いであり、

          デカルトの「我思う、ゆえに我あり」について考える

          何故、人を殺してはいけないのか?

          現在においても「何故、人を殺してはいけないのか? 正しくないのか?」と言う問題は盛んに議論されています。ずいぶん昔の問題を今でも議論されていると言うことはまだ確かな答えが出ていないと言うことです。それではこれはいかなる答えを求めて議論されているのでしょうか。それは人を殺してはならない確かな理由、根拠です。「正しくない」と言うならば、確かな、間違いのない理由、根拠が必要となるのです。 また「人を殺してはいけない」と言う言葉の意味には「絶対に人は殺してはならない、絶対に正しくな

          何故、人を殺してはいけないのか?

          幸せの本当の意味とは??

          皆さんも「幸せとはいったい何だろう?」と一度は考えたことがあるでしょう。そして皆さんが出した答、結論は「幸せは人それぞれである」と言うものでしょう。確かに何を幸せと感じるかは人それぞれでしょうが、その幸せの意味とはみんなに共通するものがあるのです。誰でも幸せになりたいと考えます。幸せになりたいと思うのは「幸せ」と言うものを皆さん潜在意識的にはちゃんと知っているからなのです。 幸せとは何か?と問うことは「幸せと言う言葉の意味とは何か?」と言うことです。それは幸せの本質とは何か

          幸せの本当の意味とは??

          絶対善、善のイデアはあるのです

          久しぶりでの投稿となります。今回は「イデア」について書いてみたいと思います。 一般的には「イデア」と言うものはなかなか理解し難いものであると考えられています。確かに善のイデア、美のイデア、自由のイデアなどなどのイデアを「これである」と明確に示したものはなかなかありませんから、そもそもイデアなどないのだと考える人たちもいます。 しかし数学の世界ではたくさんのイデアが知られているのです。その一つが三角形の定義です。本来、定義をするとはイデアを明確に言葉にすることを言います。例えば

          絶対善、善のイデアはあるのです

          善、正しいとは何か?

          皆さんは「自分の考えは正しい」と思うから投稿をしているのでしょう? では「正しいとは何ですか?」「正しいとはどのような意味なのですか?」と聞かれたら、誰か答えられますか? 誰も答えることはできないでしょう。 つまり私たちは「正しい」の意味を本当は知らないのです。正しいの意味を知らずに「自分の考えは正しい」と思って投稿をしているのです。これはやはり矛盾と言えるのではないでしょうか。 ですから私たちはまず「正しいとは何か?」を知らなければ何も始まらないのです。勿論、ここでは「

          善、正しいとは何か?