名前をつけるということ。

こんばんは、焼却炉です。イカのゲームにのめり込みすぎています。


今日はまた何となく考えたことを言葉にして整理していきたいと思います。よろしくお願い致します。


名前という型。

私にはいくつ名前があるだろうか。
文字を書くために別の人間になったこともあったし、電子の世界で誰かと繋がるために色んな人間の姿になった。その度に名前をつけて生きてきた。どれもこれも私を構築する部品であることに間違いは無いけれど、もしどれが私の名前かと聞かれてしまうと正直困ってしまう。私は誰で居たいのだろう。

名前をつけるとなんだかその型にはまったような気がして呼吸がしやすくなる感覚も確かにあって、それで救われることも多々あったしこれからもきっとあるのだろうけど、私のアイデンティティとやらは一体誰が持っているのだろう。

感情に名前をつけて鮮明にする罠。

他人が自分の感情に名前をつけてくることがあって、ただそれは思い返せば他人の予測変換で名前をつけられただけに過ぎなくて私の本当の感情の名前とは何だか違うものに変質させられてしまうような気がして。悲しかったんだね、とか辛かったんだね、とかまぁ間違ってはいないのだけれどそれ以上に煮えたぎる怒りや恨みとかいうものを理解して貰えないことも、表面的に傷を撫でただけで同情してくることも、本当ならいらないことなんだなと思う今日この頃。

自分の感情に名前をつけていいのは自分だけで、自分の傷は自分だけのものでしかないのだから、他人からのどんぴしゃの予測変換なんぞ、この世には存在するわけないし、それならいっその事煮えたぎらせたまま、煮詰めて密度をあげてしまえばそれすらアイデンティティになるのかな。


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