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スパラクーアでのひとときで思いを馳せたヴァージニア・ウルフ『自分だけの部屋』


noteなのにブログのノリで書き始めていいのか戸惑いながらもつらつらと。

スパラクーア(Spa LaQua)に行ってきた。
ここ最近のがんばりでカラダはバキバキ。整体にも行きたかったんだよねぇとラクーアに向かう。

整体の本予約をした後、まずはお夕飯。本当はお風呂上がりのお夕飯がよかったけどすでにお腹はぺこぺこだったからしょうがない。
手元に届いた店イチオシの鯖定食(とても美味しかった)をいただいていると、カウンター席並びの女性が生ビール(中)と鰤のお造りを頼んでいた。あぁ…、ビール飲みたい!!とここで電車でなく車で来たことを大いに後悔。お隣さんが飲むビールはますます美味しく見える。

煩悩まみれの私が解脱を目指すべくそこからはひたすら岩盤浴でぼーっとする。その後はお風呂で汗を流し整体を受けてまたお風呂とサウナ…。
贅沢なひとときだ。

私は岩盤浴で薄暗がりな天井を見つめながらふと思い出す。

文学に没頭していた私が、英文科*の授業で原書購読したヴァージニア・ウルフの『自分だけの部屋』を。

彼女は、類稀な文学の才能をもち、女性であり、教養豊かな両親をもち、かのサウス・ケンジントンで幼少期から生活を送っていた。

彼女が兼ね備えていたものの欠片によって、彼女の意味するところに無理解を招いたり反感さえ買ってしまうのであろうなと。

そのように思い至ったのは、私が地方の国立医学部で学生生活を送ったことが大きい。
各人のバックグラウンドの相違とは、やはり、必然と人を隔絶するものなのだ。隔絶することが悪いわけではない。そうでなければ、無用な摩擦をうむか、一方または双方が気を遣ったり耐えたりせねばならないから。

ただ、その経験が必要だったかどうかといえば、今のところは必要であったとは感じていない。もちろん、物事すべて一長一短であるから、都内の私立医学部に進学していたとしても不満が出なかったとは考えづらい。

私は、岩盤浴でじわっと汗ばんできた身体に、その空間での居心地の良さと一体感を覚えながらも、いろいろな考えが巡り始めた脳内を静かに深呼吸してスローダウンした。

「久しぶりに海外旅行に行きたいなあ…。ルーベンスのマリー・ド・メディシスをまた見たい**
行こうと思って計画を立てていた矢先に行けなくなったロシアも、サンクトペテルブルクに行ってエルミタージュを堪能したいし。バレエも音楽も…」

自分にとっては水や空気を欲するようにそれらが必要だ。では、それらはどのように創られ愛でられてきたか。
私は享受するばかりであったが、実際にはその過程でも現実的問題は横たわり、それを超える才能や直向きさ、執着、あるいは幸運などによって乗り越えてきたのであろう。逆にその現実も糧になるのであろうか。それともその現実と矛盾に苦しむのか…。

そこで改めて思う。

ああ、
やっぱり私はこっち側の人間だったのだなと。



* 私は医学部に入学する以前、他大学を卒業して会社員として勤務していた。

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