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一統合失調症者の自分史 反省と後悔④

三宅康雄

 精神の病が全然治っていない状態で大学生になった私のキャンパスライフは不毛で苦しみに満ちたものでした。特に友人関係ではさんざん苦しみました。一学年で43単位迄しか履修できないという制限単位と呼ばれる制度があります。東大病院のデイケアにSさんという立正大生がいました。彼が言うには1年生の時、病気で大学に通えず1単位も取得できなかったので、学校当局に事情を話し2年生の時、制限単位の枠を拡大してもらって、単位を履修し、3年生に進級できたというのです。私はこれは本当に愚かな事をしたと後悔しているのですが、埼玉県の熊谷にある教養課程には夏休み迄半年間通っただけで、東京に舞い戻り、信州大学を目指して受験勉強をしました。

 結果はものの見事に不合格で、立正大学に戻りました。自動的に2年生に進級していたのですが、1年生の時0単位だったし、3年生に進級するには少なくとも60単位以上必要で43単位では全部取れたとしても、留年必至です。教務課に掛け合って、Sさんという人は43単位の枠を越えて履修したという話をしました。そうしたら教務課がSさんの学籍番号を教えて下さいというのです。それでSさんの自宅に電話して学籍番号を教えて貰おうとしました。Sさんのお母さんが電話に出て「今、父親が慎重に様子をみてパチンコ屋さんに連れ出そうとしている所なのでそっとしておいてください!」
「2年生になれただけでも有難いと思いなさい!」と𠮟りとばされてしまい、Sさんの学籍番号は教えて貰えませんでした。私はSさんは制限単位を越えて履修できるのに、私はできないというのは不公平だし納得できないと思って苦しみました。

 私は大学には史学科で入学したのですが、大学に入ったあと、哲学に興味をもつようになり、史学科の必修科目をさぼって哲学科の授業に出席していました。専門課程に進級するとき、希望すれば史学科から哲学科に転科できる制度になっていました。この時に史学科のまま進級するんだったら哲学は諦める。哲学を本格的にやるんだったら哲学科に転科するというけじめをつけられないまま、ずるずると史学科のまま進級した事がのちのち悲劇的な結果をもたらすのです。

 普通だったら2年間で済むはずの熊谷の教養課程に3年かけ(熊三くまさんと呼ばれるのですが)なんとか五反田の本校に進級できた時は嬉しかったです。しかし本校に進級した頃から、徐々に確認強迫行為が始まりました。初めはコーヒーの自動販売機のお釣りの受け口に何度も指を入れて、お釣りが
ないかどうか確認しました。そのうちに休講掲示板の前に釘付けになり、いつまでもいつまでも休講届に眼を走らせる状態に発展しました。さらに人が喋った言葉が気になり、確認する状態にエスカレートしていきました。(他者巻き込み型強迫行為というのだそうです。)こうして大学に通学する事は不可能になりました。そして家族を相手に確認強迫行為を繰り広げる状態に
陥りました。この頃父が私を豪徳寺に連れて行きました。寿一郎叔父は父に向って「大変な事になりましたね」と言い。美穂子叔母は怯えたような眼つきで私を見ていました。父がどういう心理であの状態の私を豪徳寺に連れて行ったのかは良く分かりません。大学に通学できなくなったからといって、
何もしない訳にはいかないと思った私はハイデガーの「存在と時間」に取り組みました(邦訳ですが)。もちろんそんなことをしても、病気が1㎜も良くなるはずがなく、東大病院時代以来の主治医である川関先生からハロペリドールという抗精神病薬(メジャートランキライザー)を処方され服用しました。(私はそれまで抗不安薬マイナートランキライザーを服用した事はあっても、メジャーは初めてでした。)そうしたら何もする気が起こらない状態に陥り寝込んでしまいました。また舌が突出し、歯で噛み切りそうになりました。

ここまで読んで頂いて有難うございました。   ➄に続きます。











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