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一統合失調症者の自分史 反省と後悔②

三宅康雄

 地獄そのものの高校1年が終わって、2年生に進級しました。クラス替えが
ありこれで苦しみから解放されるかと思いました。甘かったです。私は理系志望だったのですが、左斜め後ろのKという男が特に理系の授業中、授業そっちのけで漫画を描くことに熱中していたのです。私はそれが気になってどうしても、授業に集中できず苦しみました。もうこの頃には多年にわたる苦しみで私の精神はボロボロになっていました。

 こうして3年生に進級しました。3年生になるとさすがの桐朋生も臨戦態勢に入り授業中に私語をする者も漫画を描く者もいなくなりました。そうしたら今度は隣家のおばさんが気になり始めました。私の勉強部屋の窓と隣家の台所の窓は我が家の庭を挟んで向かい合わせになっています。夕方になると、おばさんが夕食を作り始めます。そして夕食が出来上がると、一家で食べます。ここまでは余り問題はないのです。夕食が済むと洗いものが始まります。それは食器のカチャリ、カチャリという音と台所でおばさんが喋っている声でわかります。ここまでの流れは私にも理解できるし、納得できます。問題なのは洗いもの(後片付け)が1時間経っても、2時間経っても終わらない事なのです。それは食器のカチャリ、カチャリという音と台所のおばさんの喋り声で分かります。後片付けに何時間もかかるという事が私にはどうしても理解できず、また納得できず、苦しんだのです。結局、深夜の12時過ぎ頃になってやっと、洗い物の音も喋り声も止み、台所が消灯されるのでした。しかしこの時間になると私も就寝しなければ、朝起きて、学校に行く事が出来なくなるのです。

 苦しむ受験生の私をみて、母がそれとなく隣のおばさんに探りを入れた所、「私は台所に居るのが好きなんです。」との事だった。勉強にはほとんど手がつかない状態だったのですが、それでも最後の力を振り絞るようにして大学を何校か受けたのですが全て不合格でした。勉強することができない状態だったのですから、当然の結果だったのですが、社会の厳しさを思い知らされました。

 大学受験が終わった後、本を読む事が全くできない状態(勉強不能状態:
眼は全く悪くなかったので活字ははっきりと視えるのですが、頭が全く回らず意味を読解するという事ができない状態)になってしまいました。そして受験の失敗と勉強不能状態という二重の挫折を契機として、家庭内暴力という言語に絶する悲惨な生き地獄に陥ってしまいました。母や父や妹には本当に申し訳ない事をしたと痛切に反省・後悔しています。

 美穂子叔母に付き添われて、最寄り駅であるつつじヶ丘駅の南口にある山田病院という精神科病院に行きました。私を診察したのは、元東京大学精神科教授で医学部長の任にもあり、全共闘の闘争対象になったあの有名な台弘先生でした。台先生曰く「こんな事言ったら、女の人に失礼だけど君は女の
腐ったような奴だなあ。こんな女に誰がした・・・。」そして東大病院のデイケアを紹介されました。東大に入りたいと思っていたら東大病院の精神科という大変皮肉なことになった訳です。私は後から振り返って思うのですが、ああなったら(家庭内暴力になったら)行くべきところは、デイケアでもなければ、ましてや豪徳寺への居候でもなく、どこか適当な精神科病院への入院だったと思います。入院すれば少なくとも家庭内暴力はなくなったはずです。私はデイケアに行って呆然となりました。ただブラブラ、ゴロゴロするだけの所だったからです。

 豪徳寺に関しては、お祖父さんはただコンクリートの書庫を提供しただけで、実質的に仕切っていたのは寿一郎叔父でした。私はこの18歳の時に豪徳寺に半殺しにされ、平成2年の2月の土曜日(33歳になっていました。)にとどめを刺されたと思っています。この私の考えを理解して貰うためには、豪徳寺で何があったかという歴史的事実の復元、統合失調症とは基本的本質的にどういう病気なのかという理解、精神医療並びに精神保健福祉の絶望的貧困、以上、三者に対する認識が三拍子揃わなければなりません。豪徳寺では、夜になると寿一郎叔父が会社から帰って来て、コンクリートの書庫から私を呼び出します。そして色々な話をしました。例えば「お前廃人だなあ」
これは全くその通りだった。何しろ本を読む事も出来ない頭脳状態でしたし。「死ね!死ね!死ね!」これは多分お前は医者にかかっても治らない病気になってしまったのだから死んでしまえという位の意味だったと思います。統合失調症の啓蒙書などを読むと、患者は「死ね!死ね!死ね」という幻聴に従って、本当に自殺を決行することがあるので要注意です、と書かれていたりするのですが、私の場合、幻聴ではなく事実なのです。寿一郎叔父
から自殺を迫られ、また東大病院のデイケアが精神科を標榜していたので、どんな治療が行われるのかと思っていたら、ただブラブラゴロゴロするだけの所な事が分かったので、これは自殺するしかないと思いました。いろいろな薬局やクリニックを回って、睡眠薬を合計120錠ほどかき集めた私は、全部一気に飲みました。しかし死ねませんでした。救急車が来て、救急隊員のが私を車の中まで連れていってくれました。事情を知らない救急隊員の人は「今は不況だからみんな大変なんだよ」と言って呉れました。この言葉に私は世間の温かさを感じました。搬送先の病院の医師が桐朋出身者で「怖いよな」と言われました。

ここまで読んで頂いて有難うございました。➂に続きます。


 

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