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パラメータ調整と因果と絵【中身が先・装飾が後】

今回は意外に大人になるまで気づかないちょっとした生き方のコツをお話しします。

私は習字で何回も表彰されましたが…

私の中学校くらいまでの失敗というか、大人になるまで誰も教えてくれなかった大切な考え方について書いていきます。

私は中学校まで全校集会で体育館のステージに何度も上がって表彰されました。何で表彰されていたかというと「習字」です。

習字は習字教室を小学1年生から中学校まで続けていたので、他の生徒よりアドバンテージがあり、中学校あたりまで続けている生徒がほとんどいないので表彰されるレベルを維持するのはそれほど難しくなかったのです。

別にそれがすごいとかすごくないとか白黒つけたいのではありません。習字教室の先生が言っていた内容が、後々まで尾を引くことになる教養の「穴」となりました、ということを言いたいのです。

どういうことかというと、習字の先生は私が習字教室で中学生のころのある日にぽつりと言ったのです。
「君の習字は習字ではないね、でもまあそれが君の個性なんでしょうね」

私の習字の書き方というのは、方眼紙を十字に折って、そこから何ミリの位置にこのくらいの細さの線を配置する、みたいな書き方だったんです。
お手本をいかに忠実に再現するか、ということに重点を置き、コピー機のような線を半紙に再現するのを目的とする、みたいな書き方だったんです。

そしてそれを習字の先生の所へ持っていくと「もっと荒々しい線を」とか「もっと流れるような線はこう書く」とか言われるわけです。

先生が言っている意味がよくわからなかったので、私は先生が私の書いた文字の上に赤い墨で書いたお手本を研究して、あと何ミリこの線をずらせば赤いお手本の文字に近づけられるか、みたいなことを考えて、修正した文字を半紙に再現して先生に持っていきます。

先生もあまり細かくやるといつまでたっても教室が終わらないので、ある程度修正されていればOKを出します。そしてその日のレッスンは終了です。

確かにこの方法でも習字は上達しました。狙った位置に狙った線を書けるというだけでも、同年代の学生の中にはなかなかいないうまさになります。

しかしながら、この方法がやはり欠陥ではあったんです。大人になってからわかりました。私がやっていたのは単なる「パラメータ調整」です。

パラメータ調整

人はバランスを考えます。何事においても加減を調整して適切なバランスを探ります。
この方法の何がいいか、というと元の現象の細かい仕組みがわからなくても調整できるパラメータが明らかになってさえいれば数をこなすことでよさそうな選択肢を選べるようになる、という点です。

最近のビジネス書では「相関関係より因果関係」と言われます。
これとこれにはこのくらいの関係性がある。これを上げればこれが下がる、だから下げたければ上げればいい。
相関関係には「理由」がないのです。

だからなぜそれを上げるとそれが下がるのかは説明できない。すると状況が変わったときすぐに相関関係は崩壊します。
理由(因果)まで理解していれば、状況が変わったけど理由となる論理は残っているから今までの方法でよい、とか論理が変わったから今までの方法はだめだと判断できます。相関関係だけだと理由がわからないので新しい状況になったとき今までの方法でよいのかは全く判断できません。

相関関係は一種の「パラメータチューニング」です。複数、あるいは一つのパラメータをいじって適切なバランスを探すだけの作業です。これをやっているのが機械学習などの古典的なAIです。

いくつかのパラメータのセットからそれらに相関関係というか適切なそれぞれの変数の重みを出して、ちょっと違うパラメータになったときに今までの相関関係からそのちょっと違うパラメータのときの出力を予測する。

そこに因果関係はありません。この変数を上げてこの変数を下げれば結果は大きくなるとか小さくなるとかそれだけを見ています。

私の習字もパラメータチューニングだった

私の習字も典型的なパラメータチューニングでした。どうして文字を書くのか、筆で漢字を書くのはなぜか、そこが欠落していたのです。

今にして思えば、習字の先生が言っていたのは「テーマは『水』。この文字が意味するのは清らかで、かつ変幻自在な流れ。だからそういう流れを筆で表現するんだよ。だからこの部分は細く、この部分は太くするんだよ」ということでした。

しかしながら、いろいろな「芸術系」の科目の教え方は必ずしもそれを教えてはくれません。
絵も習字も結局は何だかわからないけど塾に入れられて、なんかうまい文字とか絵を書け(描け)と言われて、上手いものがよくわからないけどお手本を渡されて、それに似せて書くと先生が「ここが違う」と修正される。
修正された点を基にまた書くと前よりはうまいものができる。結果技術が身につく。

この理屈だと「因果」が不在で本質がよくわかっていないスキルばかりが積みあがっていきます。それでも身に着けたスキルが多ければ何もしない人よりはうまいと評価される。でもあるレベルで何をどう修正しても「ボツ」と先生から言われ続けるゾーンに入ってしまう。伝えたいことが不在だからそこを見抜かれてしまう。

因果を見つけるか表現したい根源を見つける

例えば言語も似たような側面を持ちます。言語というのはある現象を言葉にして伝える道具です。
根本の表現したい現象があって、それに単語を当てはめて、装飾して伝えたいことを伝えます。
いろいろな補助的な情報は解釈が複数発生したときにどの解釈を選べばよいのかを表現します。

「私は朝起きたらすばらしい朝日を見た」
こういう文を書いたとします。カーテンを開けたときの朝日を浴びた情景が思い浮かぶと思います。しかしながら機械学習はちょっと違う考え方をします。
「私は朝富士山がきれいだった」
今の生成AIはたぶんこんなことにはならないでしょうけど、昔の機械学習ならこういう出力でも似てるからOK、みたいなところがある印象です。

そもそも最初に言いたかったのは眠い朝にカーテンを開けて、今日も一日頑張ろう、みたいな「気持ち」だったはずです。それを言葉で表現して何とかその思いを読者に感じてもらいたい、うまく想像してほしいという気持ちで書きます。根源となる気持ちを装飾するという、根源→装飾という順番が大切です。

しかしながら機械学習は気持ちは理解していないのでその場の似たような言葉の寄せ集めみたいな出力を出します。そもそも気持ちを伝えるという点を理解していないのです。(今のところは)
やっているのはパラメータチューニングです。

パラメータチューニングばかりやっていると自分の引き出しも増えないので、因果関係を探る努力をしたほうがいいでしょう。
あるいは表現するときは「何を表現するのか」という視点が必要です。この線は柔らかさを表現するからこういう角度でこういう強弱で書く。
そういう根源を大事にしましょう。

中身が先・装飾が後

中身が先・装飾が後です。これを逆にすると限りなく本物に近いけど、まったく別の理屈で作られたキメラを作っていることになります。すると相手には伝えたいことが伝わりません。なんかうまいといわれる批判が少ないだけの「何か」を作っているだけなので。

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