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学生寮物語 4

4 スッパマン
 金城から見舞いの誘いを断った翌日だった。
 翔は6時間目の授業を終え、上下を黒のジャージに着替えた。授業は3年生の国語だった。みんなが帰りの会をしている間にグランドに出て、ダイヤモンドを整備した。
 部活の準備は基本的に昼休みに、部員たちが行う。主に1、2年生が交代で準備するのだが、ダイヤモンドのライン引きが新入生のときは、翔が部活動前に引き直すことが多い。
 顧問が多少神経質とはいえ、引かれた白線はたこ足配線のように二重、三重に引き直され、見ていると目まいがしそうだった。ラインを引き直し、小石や葉っぱなど拾って、ボールがイレギュラーして怪我をしないように安全に注意する。
 翔は校舎の教室の窓を眺め、そこから視線をずらし、ふと初夏の空を見上げた。
 踏まれたチューブから慌てて飛び出した白い絵の具のように、勢いのある筋雲が水色を背景に駆け抜けていた。北の空では富士が薄い靄に包まれて錫色を身にまとっていた。すぐ手前には濃緑色を蓄えた憩いの森という小さな公園が見えた。公園に見える陰影は今年の盛夏と木陰の不気味さを醸し出していた。
 翔は校舎を見ながら生徒が教室から来るのを待った。部員たちは顧問が睨んでいるのかと思い、教室を飛び出し、グランド西側にある部室へ走って更衣に向かった。
 ランニング、ストレッチ、ダッシュ、キャッチボールまで終えるとノックやバッティングの練習に入る。途中からバッテリーは別メニューで練習に取り組む。
 翔はノックに入る前に、部員たちをホームベース近くに集めた。
「今度の練習試合は中体連前の大事な試合だ。その結果が中体連を決めるといってもいい」
 断定的に言うことで、生徒たちにはより真実に聞こえる。翔はこうしてみんなの気持ちを引き締めた。
「だが先生は個人的な用事で、みんなを引率できない」
生徒の不安な表情がそこかしこに浮かぶ。
「でもチームワークさえしっかりしていれば地区大会は突破できる」
 翔は、チームワークというものは個々人の義務と責任を果たしてこそ成り立つと考えていた。ひとつのエラーも他者のバックアップがなければさらに最悪な状況をもたらす。だから互いにカバーし合うのがチームワークだと翔は考えていた。
 翔の檄に生徒は顔をあげ、身を乗り出し、目を見開いて次の言葉を待っていた。
「試合はひとつの結果だ。大切なのはそれまでの取り組みだ。試合なんてグランドに立つ前に始まっているんだ。だから結果は考えるな!」
 三年生は真剣な表情で、頷いて聞いていた。下級生はなんとなく頷いている。そこに意識の差が感じられた。
 練習試合の采配は初任者の副顧問に一任することを伝えた。副顧問にはバントと盗塁のサインだけ伝えた。
 副顧問は女性で、中学時代は軟式テニス部だった。だが部活が終わるといつもノックの練習をしていた。今度の練習試合が初めてお披露目となる。どうなるかちょっと見てみたい気がした。
 「仲間か……」
 松永は自分が生徒に使った言葉に何ともいえない郷愁を感じた。
 部活を終えて、はやる気持ちをおさえて、金城に電話した。
「何度も悪いんだけど、やっぱり俺もみんなと見舞いにいくよ」
「やっぱりそういうと思うとった」
 金城の声は明るかった。その反応に翔はなぜかほっとした。金城は始めからきっとこの返事を待っていたのだ。翔は金城にすまないと思った。
 だがすぐに金城の電話のトーンが落ちた。
「じつはわしら鈴子から電話もらってて、先月、見舞いに行ってきてんねん。だからわずかひと月で、だいぶ悪うなってるらしいねん。心配や」
「若いからがんの進行が速いのかな」
「そうかもしれへんわ」
「じゃあ俺は大村と高山たちを誘ってみるよ」
「頼むわ。ほな」
 金城は安岡が食道癌だと妻のさやかから聞いた時、すぐに入院先に飛んでいっていた。
 金城という名前から分かるように、彼の父は沖縄出身だった。母親が大阪出身で、漁協の組合長をしていた父が退職した後、大阪に移り住んだ。彼の父は十年ほど前に亡くなり、さらに五年ほど前に母も亡くなっていた。
 金城自身も沖縄の人のような特徴がある。彫りが深く、眉も睫毛も長く、漆黒の瞳をしていた。バレーボールと少林寺拳法で鍛えた体つきは肩幅が広く、いかにもスポーツマンという体形だ。
 そしてこのオッチャンは自分のことは棚に上げ、寮生のピンチには必ずどこにでも現れるスーパーマンでもあった。「金城」(きんじょう)という苗字を「人情」(にんじょう)と置き換えてもいいとさえ思う。
 父親譲りなのか、沖縄人の情の深さなのか、大阪人のお節介なのか、他人の不幸を放っておけない男なのである。だから安岡の元にもすぐに飛んで行った。
 スーパーマンのようにさっさと問題は解決してくれないけれど、困った寮生がいればその近くに現れ、みんなを勇気づける。たぶん「あられちゃん」の「スッパマン」ぐらいの役には立っている。
 翔自身は金城からの電話で初めて安岡の病気のことを知った。金城のネットワークは高く広い。翔はいつも卒寮生の情報を大阪の金城ラジオ局から得ていた。
 


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