見出し画像

父のキャッチャーミット 6

六 ミイラ男
 初めて見た大学の寮はコンクリート打ちっ放しのまだらな灰色で、寂れた遺構のようだった。コンクリートのせいか何だか冷たい感じがし、私の不安をさらにあおった。
 いざ入寮してみると、今まで知らなかった世界がそこにはあった。
この学生寮はなんと男子の寮と女子の寮が併設されていた。若者にとって男女が一緒というだけで、やる気がみなぎってくるものだと初めて知った。私の眼には女子大生はみんなまばゆく輝いて見えた。
 入寮して初めて、寮には自治会があり、学生自身が生活規則や約束事、年間スケジュールなどを決めて生活しているということを知った。
 入寮当初は新歓パーティーがあったり、寮自治会のこれまでの歩みをガイダンスしてもらったり、施設の使い方をレクチャーされたりした。お風呂はもちろん男女別々だったが、そのガス釜は寮生がマッチで直に点火するマニュアルタイプの年代物だった。
操作の手本を先輩寮生が行った。あっけなく点火できたので、みんながその通りにできると思った。
 ひと月もたたないうちに、その悲劇は起きた。
 夜になって慌ただしく救急車のサイレンの音が響いた。
 下に降りて事情を聞くと風呂場からガスが爆発した音が聞こえたらしい。誰かが様子を見に行くとお風呂当番の寮生が火傷を負ってうずくまっていたので、119番に連絡したという。
 たぶん臆病な私なら十分に気をつけたに違いない。
 ガスの元栓を開けてから、マッチを擦るなどということは決してしないだろう。
 悲劇の主人公は新潟出身の小金持ちの息子だった(大金持ちではない)。大切に育てられた彼は、自分で風呂は沸かしたことがなかった。だからガスの元栓を開けるのとマッチを擦る順番はさほど重要なこととは思わなかった。
 全身にガス爆発を浴びた彼はすぐに救急車で病院に運ばれた。寮生は事故の顛末を知って彼を心配した。みんなそのまま入院するだろうと思っていたが、彼は夜遅くに帰寮したようだった。
 翌日、食堂で朝食をとっていると同室の先輩に付き添われて、寮に常備されている車いすに乗せられた彼が左側の扉から入室してきた。反対側の扉は女子寮との連絡口になっていた。
 顔とTシャツから出た両腕が包帯に覆われた彼はまるで全身が包帯に覆われたミイラ男のようだった。
 だが食堂にいたみんなは食事に来た彼を見て安堵の表情を浮かべた。やがてその奇異な姿にクスクスと笑う声があちこちから聞こえてきた。
 衣類から出ていた肌がダメージを受けたが1、2度程度の火傷で済んだらしい。火元に近かった顔面がいちばんダメージを受けた。それで包帯のマスクマンになった。
 ちなみにこの寮では体に障碍がある学生もない学生も一緒に生活しており、自然と相手に配慮するライフスタイルがみんな身についていた。日常生活では同等の人格として口喧嘩もした。でも不思議と後を引くことはなかった。
 新潟のミイラ男も、多少の不自由さはあったろうがその生活には何の問題もなかった。また周囲の寮生も、彼の受けた損傷やそのいきさつについて冷静に、むしろ冷淡に受け止めていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?