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私の焦りを吸い上げるヴィーナス



昨年から状況が変わり予約制の販売会などをする様になると、お客さんを待たせなくて良いとか事前に来店人数わかるから良いとかお客さんにも負担が少ないし都合が良いとか、それはそれなりの利点を感じはしたのだけど。

しかし個人的にはやはり事前予約無し、イベントなどでのフリー来店でひたすら作っていく方が好きではある。ライブ感があるというか。読めないしんどさと刺激が混ざり合ってるのかな。

とにかく来てくれたお客さんに満ちて帰って欲しいし、さまざまな価値観やお客さんの感情、来店のタイミングと花の状態、僕の状態など、全てのうつり変わるものを同じ式で計算しても来てくれたお客さんそれぞれの答えが近似である様に僕の中の数値xを調整していきたいわけだけど。


結局そんな事をしていることが、しんどい、と、生きている、を両方もたらすのか。マラソンみたいな感じなのかな。走るのは嫌いだけど。




出店は、というか仕事は毎回それなりにくたびれてクタクタにはなるんだけど、

今日は全て終えてブースの片付けをしながら、久しぶりに命削ってるな、という感覚になったというか

その感覚自体が久しぶりに思えたからか、恐らくかつてはそれを求めて仕事をしていたんだよな、などと考えていた。


刹那的に変わり消えていく花の命を削ってご飯を食べさせて貰って、そうして場繋ぎした自分の命をまた削って仕事をしている、ということが生きていることを実感させたり、

そうしていることが他人の中に何かを残し、自分が生きていい理由になるのでは、などと感じていたのかな、と今更ふと思い至ったというかね。

渦中にいる時には言い表せないことが、離れてみると急に言葉に出来たりするものだな、そういうことなのかな。

ほんとどうでもいいことだけど自分にとっては過ぎてきた点を繋いだ先の、小さな一つの今なので記録をしておきたい。


何者でも無いものが、何者かにならなければいけないと一度思ってしまうと、焦燥感と足りなさで本当に生きるのが辛くなるもんだ。

そして何者かになるという事は、他者を意識している事、他者にとって価値のある何者かにならなければいけないとどこかで思っていることでもあり、それは恐らく作るそばから崩れ去る砂の城なので、やれどもやれども苦しいんだ。


他者を通してしか自分を認められずにいるのに、結局、本当は自分で自分を認めるしか救われる術はないのだろうとは思う。

自分で自分が生きていても良いと思える様に自分を知ること、そのために他者を通して自分を知ること、自分を知ることで認められない自分と少しで折り合いをつけること、そして勝手に作ってしまう自分と他者との間の自己否定の溝を少しでも埋めること。

そんなこんなをしている間に気がつけば歳を取り、自分との折り合いをつけられないと自己否定の材料は増えるばかりだったりするだろうし。溝を埋めたかった他者との距離はどんどん離れて行ったり、亡くなってしまったりするのだ。

いつまでも自分とも他者とも距離は縮まらないな。





僕は一応家は東北にある割に、東北での仕事がとても少ない。今月はなぜか宮城、山形、秋田と東北の仕事が多いけど。

よく行くエリアでは無く、ほとんど行かない東北の初めて行く仙台のお店での仕事は全く見向きもされないのでは無いか、2年ぶりに行く山形のイベントではもう忘れ去られてというかそもそも他に花屋さんもできてるだろうし全く必要無いのではないか、とか、いくらでも不安の海はいつでも満潮なんだよね。

忙しくさせてもらってる間だけはその海で溺れずに済むのだ。

勝手に自分の中に作った海なのに息継ぎする術がそれしか知らん。うまいやり方覚える間に年取って消えてくんだろうなぁ。


販売、来てくれる皆様、初めてトライをしてくれる方も、何年も前から知ってくれていてたまにしか僕は行かんのに来てくれる方も、皆ありがたい、ありがとうございます。 

花の仕事につきたいと言っていた子も、花に携わっていて、なんだか勝手にほっとしたけど、

意思を持ってやっているなら渦中にいるときは分からなくてもきっとそれでいいよ、やれるだけやりな、とも言いたいし、 

かといって必ずそれをしていないとあなたの存在価値が無いわけではないから、あるだけでいいんだよ、とも言いたい。


それは自分の姪や甥、自分の生き方が分からない子や、生きる事に悩んでいる過去の自分にも言いたい。

そう思うのに、今の自分にはそう声をかけられないんだから、今の自分がいつもなにより難しい。

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