「推す」ことは「ドラマ」だ!
「推す」、それは壮大な「ドラマ」だ。
そしてドラマを作り出すために必要な「ストーリー」「エピソード」のおかげで私たちは「ドラマチック」に生きることが出来る。
「好きなものの最終回」はとても辛いのに、自分を進めるための「美談」や「糧」にしなければならない。レンズと被写体はここで大きく歪み
「受け取り方」という演出が生まれる。
人生を揺るがす推しほど真っ直ぐに見れないの図
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「Fantia」支援者様に向けてこんな文章を書いた。
わたしは夏に生まれた。
一番最初に覚えている風景は保育園の友達たちと地面に指で文字のような漢字のようなものを「描いて」いた時の主観の風景。
「文字を書く」とはまた違った、「絵本の中に並ぶカタチ」の模写。
イラストで生き続ける。
今日も明日もそんな自分を夢見て生きるために「やりたい事」以外の行動をする。そのために必要なドラマの一部だ。
「エピソード」「伏線」そしてこれは「回想」。
そっちの方がイラストレーターとしてのドラマの中でならずっと「ロマン」があっていい。
そうやって自分を奮い立たせて1日が始まったり、終わったりするのだ。
そして、そんな小さな見栄がいつか後年の「伏線」を担っていたなら嬉しい。
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絵をインターネットに公開するようになって15年。
ここ数年、「応援」をしてもらうことが増え、自分が迷った時「肯定」すらしてくれる。そんな関係の人も存在する。
それは「友人」であったり「長年の応援関係」であったり…
思い浮かぶひとりひとりに常に「ドラマ」がある、そしてそのドラマは決して交わることはなく個別のストーリーとして同じ時間軸を違った節目で、演出で、これからも続いていくのだろう。
どこかで止まらない限り「見届ける」ことも「追い抜く」こともない。
これは進化論で「赤の女王仮説」と言われる考え方。
半分はポエミーな自伝であり世相の感傷として書き上げた文章なのだが
「ああ、それでも大好きなものの「最終回」はハッピーエンドがいいなぁ。」
書き上がって自伝という意識から切り離された瞬間に「終らないコンテンツ」は理想であることが身に染みてしまった。
いや、読みたいだろハンターハンターの最終回。
曖昧に書き始めた冒頭の文章こそが芯というのは普段文章をまとめない側にとって正直よくある話だと思う。
自撮りにチャレンジした際盛れるフィルターを無心で切り替えている間から「何だこの似たような写真の山は」と我に帰った時くらい恥ずかしい。なのであげ足を取らないであげて欲しい。超お願い。
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この記事を読んでくれた方には
「推し」との「ドラマ」をより美しい物語として構成してほしい。
色々なエンターテイメントのあり方が確実に変わっている。
見るものを選べるが選びきれない時代。
溢れかえる情報と感情、発端や歴史の海の中でぼんやりとそう思った。
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ついでに
SUZURI でこんなグラスをいつくか作った。ぜひとも「ズッキュン」を押したり作品を推してほしい。
かなりインスタ映えするぞ
宣伝の写真を撮るためアイスから作って世界観を徹底。
note慣れしていないので最後は茶化さないと照れてしまう。
口下手イラストレーターカンジでした。
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