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[書評][栞]「ダンジョン飯」異質なものへの愛。新たな価値を見出す先に

モンスターはどんな味をしているんだろう?

という素朴な疑問に真っ向から挑む怪作が、ショートショートとファンタジーの魔術師、新進気鋭の作家 九井諒子さん が放つ初の長編連載作品

「ダンジョン飯」である。

ダンジョン飯第1巻 (著:九井諒子 エンターブレイン刊) 

地下迷宮の奥深く、剣士ライオスとその仲間たちは巨大なドラゴンに苦戦していた。あわや全滅というところで、ライオスの妹ファリンの魔法で脱出するも、ドラゴンに食べられてしまったファリンは地下に取り残されてしまった!
装備以外のすべてを失った一行、食糧をそろえるお金はなく、装備の質も落とせない。しかし、一刻も早く妹を(完全に消化されてしまう前に)助け出さなければならない。そこでライオスは仲間に提案したのだった・・・・

「食糧は迷宮内で自給自足する」

出現するモンスターを倒し、食し、ダンジョンの奥へと進む冒険者を描いた作品だ。全編を通してしっかりギャグマンガなのだけれど、

”みじん切りまでは蘇生した奴がいたよな?!うんこから生き返った冒険者の例は?!”(p.13)

みたいな結構シビアな設定のなか、調理方法や、食材の下ごしらえの工夫を細かく記すことで、ファンタジー世界の食材の特長や味をリアルに描いていてかなり面白い。完全な拒否反応を示していた仲間が、ダンジョン飯の美味しさにほだされ嫌々ながらも食べ始め、次第にはまっていってしまう・・・という

「全然面白いとは思わなかった新ジャンルに、誰かの薦めと巧妙なワナによりハマっていってしまうあの感じ」

が丁寧に描かれていて、「あー、、、あるあるだわ。」となんだか共感できるようにもなっている。

「既存の価値観の再考と新たな価値の発見」というテーマ

ダンジョン飯を、ただ設定の凝ったグルメマンガと捉えることもできるが、私には、「既存の価値観の再考と新たな価値の発見」というテーマがあるようにも思える。このテーマは、他の九井諒子作品にも通じるものだと思っているのだが、今回は、別の単行本の「竜の学校は山の上」を例に挙げようと思う。

竜の学校は山の上 (著:九井諒子 イースト・プレス刊)

「ダンジョン飯」は、倒すべき敵でしかなかったモンスターに食糧という新たな価値を見出していく物語だ。作中では、倒したり、調理したりするなかで、今まで見えてこなかったモンスターの体のつくりや生態、モンスター自体の魅力に気づいていく過程が事細かに描かれている。

一方、「竜の学校は山の上」は色々な種類の竜が普通に生息する世界で、技術の発達によって利用価値が否定され、保護の必要性さえ否定されはじめた竜の、現代での利用価値を再発見しようと苦心する学生の物語だ。

大学で竜について学ぶ竜研究会の学生たちは、食べられなくなって久しい竜肉の鍋を囲みながら、食用、愛玩用、労役用など新しい利用価値はないものかと熱い議論を交わす。(p.223)

アプローチと対象は違えど、どちらもやっていることは同じで、実際に自分で利用してみることで、既存の価値観とは違う何かを見ようとしているのだ。

こんなテーマを描くってなるとお堅いものになりそうなものだが、なぜ九井先生の作品は説教臭さを感じさせないのだろう?

九井作品の魅力であり、巧いところでもあると思うのだが、純粋な興味、言うなれば”愛”に突き動かされている登場人物が多いからだと私は思っている。
ライオスのセリフで印象的な物がある。

”俺は魔物が好きだ 姿や鳴き声 どんな生態をしてるのか そのうち味も知りたくなった”(p.023)

そこにあるのは、損得勘定ではなく、妹を救わねばという義務感でもなく非常に単純明快な欲求。「好きだから知りたい」というモンスターへの興味だ。ライオスの愛は周囲の人を動かし、ダンジョン飯を研究し続けてきたドワーフのセンシに導かれ、見出した新しい価値はその日の食い扶持、という形で認められていく。

一方で、自分が見出している価値が認められずに苦しむのが「竜の学校は山の上」の主人公、アズマたちだ。

”俺にとっちゃ こんなこと一つ一つが楽しくて仕方ないんだけど 興味のない人には何の意味もないんだよな”(p.246)

「社会的に認められる価値を見出してやりたいんだけど、知れば知るほど現代での利用価値がないという現実が明らかになっていく」というジレンマにぶつかるが、それでも彼らを動かすのは、「排除されようとしている存在でも、意味がないはずがないんだ」という確信であり、何かに対する愛着があるからこそ、そのものの存続を望む、という単純な気持ちなのだと思う。

一時的、一元的な価値判断による価値の否定と言うのは、作品の中での竜とか、モンスター食とか、利用価値という分り易い尺度があるものに限った話ではない。コミュニティから、社会から阻害されたマイノリティたちも同じ社会や集団からの「否定」に晒される。

「役に立たないから大切にする必要はないって言われても反論できる気がしない・・・」と自信を失うアズマに対して部長の香野橋は言う

”世の中にはな ふたつのものしかないっ 役に立つものと これから役に立つかもしれないもの だっ”
”なくしてしまったものを あれは役に立たなかったってことは言えるけど それは所詮狐の葡萄 だから簡単に捨てちゃいけないんだ”(p.249-250)

この二つの作品に通じる「既存の価値観の再考と新たな価値の発見」というテーマは、「異質なものへの愛」と言い換えることもできそうだ。既存の価値観にとらわれていなければ「異質」なものですらないんだけどね。

自然環境系の勉強をしていた大学時代にさんざん「金にならない研究」だぁ「この業界では食っていけない」と言われた(り言われている人をみたり聞いたりしていた)私としてはかなり共感できるのだ。誰かが見捨てないで新たな価値を見出してやらないと、この地球上からなくなってしまうもの、というのはあまりに多い。

今回は「ダンジョン飯」と「竜の学校は山の上」にしか言及出来なかったが、

馬人と猿人の共存を描いた「現代神話」(「竜の学校は山の上」所収)
狼男症候群の少年と母のお話「狼は嘘をつかない」(「竜のかわいい七つの子」所収)
人とは違う生まれをした漫画の主人公の話「ショートショートの主人公」(「ひきだしにテラリウム」所収)

をはじめ、多くの作品で異質なもの≒マイノリティである登場人物が出てくる。しかし、確かに異質な存在なんだけれど、周りの人たちが「そういう人も普通にいるよね」と普通に受け入れている、マイノリティの存在が自然と社会に溶け込んでいるような作品が多い気がする。

その辺についてはまたの機会に・・・・

【著者情報】
九井諒子(くいりょうこ)
商業誌で作品が掲載される以前は同人、Pixiv、自身のウェブサイトを中心に作品を発表していた。来歴に関しては全く情報が出てこないのだが、私は農学部出身なのではと信じて疑わない。既刊単行本は以下の4冊

「ダンジョン飯 第1巻」(エンターブレイン 2015年)

ひきだしにテラリウム」(イースト・プレス 2013年)

竜のかわいい七つの子」(エンターブレイン 2012年)

「竜の学校は山の上」(イースト・プレス 2011年)






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