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低山行者という生き方

四王寺山にあらためて思う。

白村江の戦いで敗れたヤマト朝廷が大宰府を守るために大野城、基肄城、水城を築いた。古代の巨大公共工事。

そもそも御笠川流域は奴国(1世紀から3世紀前半ごろ)。水田農耕が日本に定着した場所でもあり、古代からずっとたくさんの人の暮らしがあった場所。そのまわりには油山、牛頸山、天拝山、そして四王寺山。

そんな四王寺山は、大野城が築かれて初めて歴史の舞台に登場するけど、それ以前から、様々な形で人と関わっていただろう。

稲作農耕民が田んぼから見上げる山は、水の恵みの山であり祖霊が還る山で、そこには命を司る神が居る。人はそこに手を合わせ、安全と豊穣を祈ったはず。これは四王寺山に限った話ではなくて、人里から仰げる山で、祈られたことのない山はないんじゃないかな。祈りの遺構のあるなしに関わらず。

4世紀から6世紀頃のどこかで、奴国もヤマト国に統合されるのだけれど(筑紫君磐井は528年死去、536年に那津官家)、その直後に白村江の敗戦(663年)があり大野城築城(665年)があったわけだ。ヤマト朝廷からしたら大宰府は大事だけれど、そのまわりに暮らす人たちのこれまでの想いなど関係なかったはず。なのでひょっとすると、大野城が築かれたとき、それまで四王寺山が持っていた大切な何かを、そこに暮らす人の想いとは別に、上書きしてしまっているのかもしれない。

そんなことを考えて歩いていると、単に見えている大野城の遺構や33箇所石仏だけでなく、それより以前にこの山のこの土に捧げられた祈りも感じることができる。山の森と水に支えられた人の暮らしの長さと同じだけ喜びや悲しみがあり、祈りがある。そしてそれは、古代の山城という公共工事も、現代の道路や砂防という公共工事も消すことができない、厚い祈りの積み重ねとして、今日も一つ積み重ねられ、明日に続いていく。

そう、人の暮らしのすぐそばにある低山にはそんな力がある。暮しと地続きの山を歩き、森と水の恵みに感謝してその力をいただきながら暮らすのが、低山行者という生き方。四王寺山伏、低山行者として、今日も感謝して普通の一日を生きよう。

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