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四王寺山ディープ案内二日目

さ、二日目です。
今日はどこから登ろうかな?
じゃあ今日は太宰府駅から。


今日も世界中の人で賑わう太宰府天満宮。菅原道真が都での権力闘争に敗れ左遷され不遇のうちに生涯を閉じ、なきがらを運ぶ牛車が動かなくなりそこに祀ったという場所です。
左遷といっても遠の都大宰府なんだからそんなに嘆かなくてもいいんじゃない?とか思うけど、まあ国のトップあたりから急に、情報もこない何もしない毎日になったら、嘆きもするかもね。というより、愛した土地を意に反して離れさせられることが、一番大きなダメージだったのかもしれませんね。

大宰府天満宮から、お石トンネルを抜けて右へ行くと宝満山ですが、今日は左へ。御笠川を渡り、朝近稲荷の横を登っていくと、車道はどんどん急になっていきます。

このあたりは、原山無量寺があったところで、最盛期には伽藍が立ち並ぶ一大仏教拠点でした。円珍の8人の弟子が開いた八つの坊が斜面に広がり、原八坊と呼ばれていました。当時は宗教施設と言うよりは、学問の拠点のように見られていたのではないかな?仏陀が見いだした真理に近づこうと、書物を読み、瞑想し、同志と討論し手紙で意見交換し…。現代の学者先生たちのようではないですか?現代の人々が、科学技術の探求が世の中をよくすると信じているのと同じように、かつての人々は、真理の探求が人の心を通じて社会をよくする、と考えていたのではないかと思います。でもそれって、今も、そうですよね。
一遍も学び、足利尊氏も滞在した原山無量寺は戦国の戦火で焼かれ、今は小さな板碑にかすかにその名残を見ることしかできません。


車道が尽きるところに、黒岩神社の鳥居。ここからトレイルに入ります。

すぐに大きな砂防ダムが現れます。
昔は山の中に傲然と現れる砂防ダムが嫌いでした。山も崩れて形を変えていくものだよ、って。でも、豪雨災害の現場での仕事を経験した今は、その無粋なコンクリートの塊が、小さな幸せを守る強靭な筋肉に見えて、愛情すら覚えます。ものの見えかたは、経験やストーリーでこんなにも変わる。だとすれば、どんなことにも意見が違う人がいるのは当たり前。自分の中の価値観の多様性に気づくことが、世の中の多様性を許容し、包摂していく最初の一歩かもしれません。


砂防ダムを巻いて、真っ赤な鳥居をくぐり、石段を登っていきます。
目の前に大きく迫り出す岩の出っ張りと、そこに貼りつく小さな祠。最初は山そのものが信仰の対象になって人がそこで祈り、誰かが石段を置き、いつか社や鳥居が少しずつ置かれていったのでしょう。人と山の交感の場所。


もう一息登ると四王寺山のピークの一つ、水瓶山です。白いのっぺりした祠が一つ、建っています。この下には水瓶が埋まっていて、渇水の時にはそれを掘り出し、原山無量寺の僧によって、雨乞いの行が営まれたそうです。
無量寺が建つよりずっと前のこと、日照りが続いた時、宝満山に籠っていた伝教大師最澄が、この山の上に龍が昇るのを見てここで祈り、雨を降らせました。それから、水瓶山は雨乞いの山となったそうです。


水瓶山の先で、廃道のような林道に出合います。林道があると興醒めな気もしますが、林道脇は日が入って植物が多様になり、虫や鳥を多く見かけます。二つの環境の境界付近で日照とか湿度などの条件が少しずつ変わることで生物が多様になる、いわゆる辺縁効果というヤツですね。生態系も文化も、辺縁というのは多様性の中で何かが生まれるホットスポットかもしれません。

林道の先から、急な登りです。段差の大きい階段は膝にきます。体幹を意識して登りましょう。膝を手で押し下げるようにするのもいいですよ。
さ、土塁につきました。
左に行くと焼米ヶ原。土塁が大野城として生きていた頃、たくさんの兵士がそこで暮らしていたらしく、焼けた米がたくさん発見されたとか。今は駐車場もある緑の広場で、お弁当を広げる親子連れや眺望を楽しむカップル、そこから土塁周回をスタートするハイカーやトレイルランナーなど、たくさんの人で賑わっています。

ここでのんびりしたら、さあ、下山。
駐車場のすぐ下のところに、大きな石垣があります。太宰府城門。ここが山城大野城の正面玄関だったようです。この門から、太宰府に向けて、太宰府町道が車道に何度も出会いながら続いています。土塁の中の集落の子どもたちは、昔はこの道を太宰府の小学校まで通っていたそうです。

登山道って、遊ぶための道と思いがちですけど、もともとは生活の道。学校に行く小学生に戻って下りましょう。山のなかなのに電柱が出てきてびっくりしますよ。






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