サッカーの”楽しさ”とは


サッカーの楽しさとは。

チームの勝敗を競うゲームにて
複数人がそれぞれの意図を持って同時に行動することによる 相互作用
その相互作用の中に含まれる
足とボール、人間と自然、などの関係性から生まれる 不確実性

その相互作用不確実性によって結果のコントロールが難しいサッカーというゲーム。
そんなゲームにおいて、より確実に勝利を得るために行う 学習

この 学習 こそがサッカーの 楽しさ

と捉えています。

人は「進歩」を感じられるときにモチベーションが高まります。
その「進歩」は少しずつでいいから続くことがモチベーションの維持には大事です。
なので学習を続けて”いける”ことが楽しさの条件にもなります。

サッカーにおいては「より勝率が高まること」が「進歩」になるため、「次は勝てるかもしれない」と考えられることが、学習を続けるための動機になります。

「こうしたら勝てるかもしれない」「ああしてたら勝ってたかもしれない」そんなことを考えたり、試したり、語り合ったり、し続けることが、サッカーの楽しさなわけです。

相互作用と不確実性のせいで絶対的な正解がありえないため、そのありえない正解を求めて学習し続けられる、つまり楽しみ続けられることはサッカーの魅力です。


「学習=楽しさ」のため、答えが出てしまっている場合、解決すべき問題がなかった場合などは楽しさが失われます。
勝敗が予測できないからこそ学習する意欲が生まれますが、絶対に勝てるor負けるような試合ではそうはなりません。
せっかく問題が出ているのに、誰かが答えを出してしまうようなことがあっても学習意欲を損ないます。
答えをなぞるだけになってしまえば、それは思考停止でやるただの単純作業です。
また、「勝ったからなんなの?」と冷めたり、「勝利よりも大事なものがある」と勝敗以外に力を入れたりして、ゲームの絶対的な目標である「勝利」自体を目指さなくなることも、学習から遠ざかってしまいます。
後者のように勝利以外のものを目指す場合でも別の学習意欲は湧くかもしれませんが、それはサッカーの楽しさとは別の楽しさです。


困難が問題を生み出すため、困難を先に取り除くとサッカーの楽しさは損なわれます。
「上手くなってから試合に出る」「勝てそうな試合だけやる」ではサッカーの楽しさは味わえません。
「負けたら死ぬ」というルールがあるならそうなってもしょうがないですが、サッカーにはそんなルールは無いです。
勝てるかどうかわからない試合、ギリギリ勝てるかもしれない試合、そんな試合で勝つために学習し、また挑むことで楽しみます。
なのでそういった試合を提供してくれている相手チームと一緒に楽しんでいると言えます。

また、強者の立場で弱者を嬲ることを楽しむゲームでも無いです。
前述のように、絶対に勝てるゲームではサッカーの楽しさは味わえません。
それでは相互作用と不確実性から生まれる学習にならないからです。
「上手くなってから」の思想でやり続けると、ミスや負けを受け止めることが苦手になってくるため、チャレンジ精神が損なわれます。
点数が悪いテストを隠す子供と同じになります。
ミスや負けを「悪いこと」として捉える方向になりやすく、強者になったときに容赦なく弱者を嬲り、相手と一緒にゲームを楽しむという思考は育まれづらいです。

よく聞く捉え方ですが、「上手い」からサッカーが楽しく「上手くない」からサッカーが楽しめない、という思考はサッカーの楽しみ方とは違います。
その思考は、他者との比較を楽しんだり、自己表現の場として楽しんでいるだけで、それはサッカーというゲームの面白さとは別です。
「上手くない」からサッカーが楽しめないのであれば、メッシ以外誰もサッカーを楽しめません。
この捉え方が多数派だとすれば、競技人口は減っていくことになるでしょう。
競技人口が増えるには誰もが楽しめるゲームでなければなりません。
なのでこの「楽しさ」をサッカーとしては広めたくありません。


サッカーの楽しさを味わうには、「チームで戦っている」と捉えらているかどうかも重要です。
チームでの勝利を目指すゲームであり、その前提ゆえに楽しさの根幹である相互作用と不確実性がより大きくなるからです。
例えば「上手くない」選手がチームにいた場合、それをチームの問題として捉えているか、「上手くない」選手個人の問題として捉えているか、その違いは楽しさに大きく影響します。
チームの問題として「その選手もいる中でどう勝つか」という相互作用からの学習をするか、対象選手個人の問題として「あいつが上手くなればいい」と切り捨てるか。
自分自身がその「上手くない」選手だったとして、その自分の戦力で「どうチームを勝たせるか」と学習していくのか、「自分が上手くないから悪いんだ」と自己否定をするのか。
どちらの思考を持つかで、サッカーの楽しさが変わります。

筆者は小さい頃から運動が得意ではなく、いわゆる「上手くない」選手でしたが、自分でもチームの役に立てることがわかった時に学習する楽しさを得ました。
そんな運動神経が悪かった経験から言うと、「より上手くボールを扱うには?」とボール扱いそのものを学習対象の問題と捉えていた時期もありましたが、例えばインサイドキックの正確性がチームの勝敗に影響すると体感した後は、試合をイメージして的に向かってキックをしたり、よりモチベーション高くテクニックトレーニングに取り組むことが出来ました。
何をどのような問題として捉えてどこを目指して学習するか、は楽しさにはとても大事です。


サッカーだけに限らず、スポーツの目的は「上手くなること」ではありません。
「楽しくなること」だと思っています。
楽しくなるには、何を楽しいと感じるかを理解することが大事です。
教育的価値や商業的価値などはその「楽しさ」から生まれます。
「楽しさ」の捉え方が違えば、その価値もまた違ったものになります。
ここまではその「楽しさ」の考察でした。


では。指導する上ではどのように接すれば選手達は「楽しさ」を味わいやすいでしょうか。

タスク:実行すべきこと
ミッション:解決すべきこと

としておきます。

指導者からタスクばかりを与えられた選手は、それをこなすだけの単純作業になってしまい、楽しさを感じることは難しいかもしれません。
ただし、与えられたタスクの実行自体が困難な場合はそこに学習が発生するため、楽しさを感じることはできるかもしれませんが、その他者に与えられたタスクによる学習の動機は「勝利」とは違うものになるでしょう。
それは決して悪いことではないですが、それが多すぎると「勝利という結果のため」ではなく「他者に認められるため」という価値観が定着してしまう危険があるのではないかと考えています。
自身の周囲における従来の指導法ではこの傾向が強いです。
余談ですが、「結果のため」でなく「認められるため」の価値観が定着しているとして、認められることがイコール結果となるのがYou Tubeを代表とした各種SNSと考えると、その価値観との相性は抜群ですね。

閑話休題。
指導者からミッションを与えられた選手は、問題解決という学習を楽しむことが出来るのではないかと考えています。
ただそのミッションが勝利から適切に逆算されたものであり、且つ選手がそう思えるものでなければ、タスクの効果と変わりが無いのかもしれません。
他者から与えられた課題をこなすだけ、は場合によってはタスクです。

ミッションを見つけられない選手にミッションの見つけ方を示す。
これがより最適な接し方かもしれません。
ですが、指導者側が何をミッションとするかはチームや指導者の方針や価値観が大きく影響するものでもあります。
指導者が示すミッションが偏ると、その指導者から離れたときに困惑してしまうかもしれません。
指導者はサッカーを常に理解するように務めなければ、適切なミッションの提示が難しいです。
また、選手が自身で見つけたミッションに対して、そのミッションが正解か不正解かを示すようなことが続けば、選手は「認められるため」の思考になってしまうかもしれません。
それは楽しさを奪うことと同じになります。

適切なミッションについて。
変な例えですが、例えば「パチンコを極めてお金を稼ぐには?」という思考に囚われると、パチンコという枠の中で必勝方をとにかく考えるようになると思います。
でも普通お金を稼ぐならそもそもパチンコをやりません。
ミッションの提示が、このように思考を狭い枠に囚わせることにならないように気をつける必要があります。
不確実性という面でパチンコを思いついてしまったので例にしてしまいました。
サッカーでも勝利をコントロールするためにも無駄なギャンブルは避けたいですね。


以上、サッカーにおける「楽しさ」の考察と、その「楽しさ」を保つ指導法についての考察でした。


おわり

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