私はコーチ業をあきらめた

先日見たニュースで、片付けのプロである こんまり さんが「私は片付けをあきらめた」と言っていた。

子育てに奮闘する中、片付けに気を回す時間が、取れなくなってしまったというのです。

とのこと。
でもそこで大事なことも言っていた。

ただ、完璧に片付いているということ自体が目的・大切なのではなくて、家族と幸せに過ごすことが目的なので。散らかっていてイライラするよりは、ちょっと散らかっていても子供たちと今一緒に楽しく遊んでいたりして過ごす時間が、今の自分にとっては大切なんだなっていうふうに、なんか明るく前向きに捉え直す。

片付け自体は目的ではないということ。

片付けをすることで何を得たかったか。
そこを見つめ直すことはとても大事。


さて、ではサッカーのコーチは、コーチをすることで何を得たいのだろうか。


先日、「アオアシ奨励金」という活動のツイートを自分のタイムラインで見かけた。
その感想をこのようにツイートした。

今の日本では子供たちはお金がないとサッカーができない。
それが”当たり前”になっている。
だからこういう活動が誰かを助けることになっている。

育成年代では、月謝、道具、会場への移動、補食などなど、それらの費用は選手というかその家族負担としてお金がかかる。
「サッカーをやる」というのは「クラブやスクールに所属すること」という認識。
これらは当たり前。

ボランティアクラブならお金はかからない?
そんなことはない。
たしかにボランティアじゃないところに比べたら月謝は格安で費用は抑えられるが、道具を揃えたり移動を手伝ったり〜なんてやってるとやっぱりそこそこお金はかかる。


でもサッカーってそんなにお金が無いとできないものだっけ?
私はサッカーとは遊びだと考えている。
自分が今までサッカーに関わった経験のなかで一番好きなのは、公園の広場で小学生から年配の方までがごちゃまぜになって暗くなるまでミニゲームで遊んでいたこと。
近くで遊んでいた初めましてな子供や大人を「一緒にサッカーしましょ?」と次々に誘い、都度チーム替えをやったりしながら、マーカーのみで作ったコートとゴールで、なんの制約もなく、ただミニゲームで遊ぶ。
年齢層が広いだけでなく、レベルも様々。いわゆる私服でスニーカーの子もいた。
でもみんな笑顔で一緒にサッカーで遊ぶ。
大人たちも本気を出すし、子供たちもレベル差で遠慮なんかしない。
誰かがゴールを入れればチームが盛り上がり、誰かがミスをすればチームで助ける。
そんなサッカーの原点とも言える大事な体験は、所属や属性はバラバラでプレーは無料だった。(無料とはいえボールやマーカーなどの道具は用意していたけども)
いろんな人と一緒に遊んだサッカーの時間は、とにかく幸せな時間だった。

「ミニゲームはサッカーじゃない」みたいな厳しいことを言う人もいるだろうけどそれは置いておいて。
サッカーは場所さえあれば本来はこうやって気軽に遊べるもの。
どこかに属さなくても、人とボールがあれば出来る。
そして楽しい遊びだからプレーしているみんなを笑顔にするし、そのうちにムキになって時には感情むき出しで怒ることもある中で社会性を学び、その遊びのなかで次は上手くいくように工夫してみたり上達を感じてまた挑戦してみたり。

サッカーをプレーする人たちがそういうことを経験してくれたら私は幸せに思う。
なぜなら、私の大好きなサッカーが「貴重な経験を与えてくれるもの」と証明されているような感覚になるから。
推しの価値は高めたいものでしょ?
私がサッカーのコーチをやることで得たいものはそれだったのだと気づいた。


でもね。
今思い返すと、自分のコーチ経験の中ではそれが何度もブレていた。

ブレの一つとして。選手を上手く”してやる”ことが全てだと考えている時もあった。
コーチの力でサッカーを上手くしてやる。
おこがましいね。
自分のアドバイスで相手が上達しているように見えるとたしかに嬉しい。
でもそれは誰のためだ?自分が気持ちいいだけでは?
選手が問題に気づき、選手自身がその問題を解決しようと工夫する、その”過程”こそにサッカーをプレーする意味があり、それこそが楽しさなのに、それを無闇に奪う行為にしかなっていなかった。
上手くなった、という”結果”を得ることはどうやらその過程を楽しんだことによる副産物だ。
そもそも「サッカーが上手くなる」って、それがなんだっつーの!みたいな感覚も最近芽生えた。手っ取り早く上手くなったとしてそれが何になるの?
その「結果を求めること」を当たり前にしてしまったから、動画を倍速視聴してまとめ記事を読むような時代になってしまったのでは?
本来は過程を楽しむはずの遊びなのにそこに結果を求めるような思想が、「クラブやスクールに所属して教えて”もらう”こと」を当たり前にしてしまった原因の一つ、だったのでは。
と今では考えたりもする。
リフティングのテスト?ボールタッチの強制?マジで馬鹿らしい。
それが出来なければ人間として終わりだ!ぐらいのプレッシャーを与えている現場も見たことあるけど、サッカーは別に人生になくても良いものなんだぜ。

ブレの一つとして。自分をよく見せる場として選手たちを使っているような時もあった。
独自のメソッドで結果を出そうとしたり、「自分はこんな高度なことやってます」みたいなアピールで難しそうな練習や戦術をやったり、「選手たちに時間割いてしっかりケアしてる自分カッケェ」みたいな時も正直あった。
所属選手数が多かったり、選手の進路が強豪クラブとかだったり、は鼻が高かったりしてね。
『ボランティアチームは「サッカーおじさん達のインスタグラム」』とツイートしたこともあったけど、自分も同じようなものだった。

ブレの一つとして。どうやったらコーチで食べていけるかに捕らわれている時もあった。
サッカーが好きだ!子供も好きだ!今の老人たちの指導は気に食わない!よし今の仕事を辞めてコーチを仕事にして良い指導を提供するしかない!
という思考から離れられなかったというかね。
まあ「コーチ」という立場にしがみつきたかったのだろうね。
言い換えれば他の仕事が嫌というか。
コーチで生計を立てるには、上のツイートの引用元にチラ見えしてる月謝で稼ぐのが当たり前のシステム。
当初はそのシステムになんの疑問も持たなかった。
でもそれが今の「お金が無いとサッカーできない」という当たり前を作ることに加担していたんだよね。
学校の校庭などは「利益を得ている団体に貸し出さない」というルールがあるあるで、以前は「そんなことやってるから指導のレベルが上がらないしスポーツが普及しないんだ」とか思っていたけど、違った。そのルールを作った行政の意図は知らないけど、行政のやり方が正しい。というか出来ればもっと一般に解放するべきなんだ。悪さする輩がいるからそれが難しいのはわかるけど。
きっと「スポーツ指導で金稼ごう」みたいな団体が増えれば増えるほどスポーツがお金持ちのものになっていく。
今も新しいスクールやらクラブやらを各地で見かける。(少子化なのになんでだろね?)
そんな増え続ける有料団体が場所を抑えまくっていたら、次第に無料で遊べる場は減り、「有料じゃないと体を動かせるところが無いから所属します」にならざるを得ない。


ここまで読んでもらったら分かる通り、これらのブレは目先の利益を拾ってるだけだった。
「サッカーが貴重な経験を与えてくれるものとして周知されること」という大きな利益は、そんな目先の利益を拾っていては近づけないどころか遠ざかる。
自分の今の欲を満たすために、未来のサッカー界の資源を食いつぶしているとでも言おうか。
今の欲を満たそうと思って行動するほど「サッカーは選手がお金を払ってコーチにたくさん教えてもらうのが当たり前」という文化を根付かせることになるから。


自分がサッカーで望むことはそれではない。

サッカーはもっと気軽に遊べるものであって欲しい。

Switchやスマホゲームの方が、安い、気軽にプレーできる、仲間も集まる、外野の邪魔がない、ではサッカーで遊んでもらえるわけがない。

スポーツで言うなら、おそらくバドミントンや卓球の方が、気軽にできると一般では認知されている気がする。

公園で遊んだサッカーのように、サッカーはあんなにも気軽に多くの仲間と楽しめて、リアルで多くの人の身体と感情に触れ合うからこその学びがたくさんあるのに、それが全然周知されていない。悲しいね。


先日サッカーのワールドカップがあった。
自分の周囲でサッカーに関わっていない人の反応は、開催前は「ワールドカップ勝てたら良いですね」、日本の試合がニュースになると「勝ったみたいですね。すごい!」とどこか他人事。
教え子の親御さんと話したときは「子供がサッカー卒業してからはサッカー見なくなりました〜」なんて言ってたり。

よく「日本がワールドカップで優勝するためには」みたいな声があるけども。
それは誰の願望?
優勝したら誰が喜ぶの?
今の日本におけるサッカーの立場的には、万が一今回優勝したところで「すごいですね!」と一時的に騒がれただけで終わったのではないかと。
だって多くの人は現役でサッカーで遊んでないもん。
大人になればなるほど遊ぶ場所も時間も仲間もないからやらないし、子供は子供で習い事でしかやらないもの。
自分が関わってないことで大きな出来事があっても普通は他人事だよね?
しかもさ「日本といえばこれ!これが日本!」みたいなもので勝ったなら別だけど、サッカーはまだそれには成れてないでしょ?

だからね、サッカーが日本中で気軽にみんなで遊べるものでなければ、日本がワールドカップを優勝したところで、ちょっぴり寂しい反応で終わり、その後も日本サッカーのために力を貸してくれる人は増えないのではないか、と思ってたりもする。
日本サッカーのために!と声を上げるなら、指導のレベルを上げることよりもまず、サッカーで遊ぶことを当たり前にすることが大事なんじゃないかと。


とはいえ。
「サッカーは選手がお金を払ってコーチにたくさん教えてもらうのが当たり前」という文化を今更変えることは、学も行動力も影響力も乏しい私には難しい。
私が望む「サッカーが貴重な経験を与えてくれるものとして周知されること」のためには、例えば誰でも自由に使えるサッカーコートやボール遊びが出来る広場を日本中に作りまくって、とにかくサッカーで遊べる環境を用意するのが手段の一つだろうけど、どうやったらそう出来るのかもわからない。
鶏卵問題みたいだけど、サッカーの価値が高まれば自然とそうなるとも思ってはいる。でも本当にそうなるのかわからない。

だから自分ができる範囲のことだけをやっている。
私は今、コーチ以外の仕事をしながら、無料スクールをやっている。
無料でサッカー(ミニゲーム)が出来る場と仲間を提供しながら、サッカーをより学びたい子の手助けをしている。
サッカーの靴が無いからと言ってスニーカーで参加する子がいたり、急に友達を連れてきて飛び入りで参加する子がいたり、すごくレベル差や学年差があったりして、日々練習を調整するのは大変だけど、無料提供だからこそ「サービスの品質」ではなく「プレーヤーの体験」を優先することができて満足している。

少なくとも自分の目の前は、思い描いたサッカーの景色に近づいてきた。

その景色のために「私はコーチ業をあきらめた」


終わり

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