最後なんて一生こない夏

これは8月の末に行った沖縄旅行の写真の束、備忘録である。そして正解も終わりもない制作の、ゆく末ついて。

最後なんて一生こない夏、そんな気がしていた。
9月初め、夏休み気分で洗濯物を干そうと窓を開け、においが変わっていることに気づいた。もう少しで芸術祭の季節だと、外気に諭された。
だけどそんな夏を、終わらせたくない最後のあがきとしてノートを書く。

ことあるごとに平成最後と言われているけど、具体的に何かが最後になることはない。ただ名前が変わるだけだ。だけどそれとは関係なく、大学生活での沖縄旅行は今年で最後になる気がしていた。

私は北海道出身なので、南国ならではの大きい植物を見るだけで興奮する。三度目の沖縄。一年目は興奮して気分が上がる一方であったが、今はその感情がなぜか故郷を思うような静かな感情となって湧いてくる。

ゆっくり観察していると、友人に置いていかれる。沖縄の知らない町でひとりぼっちになる。バスも電車もタクシーもない場所で、google mapだけが頼りなのに、私は地図が読めない。八方塞がり。それでもカメラを持っているとなぜか落ち着いていられるほど、沖縄の空気に慣れ親しんでいた。あったかくて、猫が足元を通り過ぎる、静かな町。こんなところに取り残されるのもいいかなあなんて考える。しんみりしてる場合じゃない、みんなを探さないと。


 美ら海の自然は大きな迫力で私たちを迎え入れてくれる。私は圧倒される。友人たちは驚くことはなく、子供のようにそこへ溶け込む。
常に新鮮な観察眼があり、全てを自然に受け入れることができる。それは普段住んでいる場所にいても、旅行へ行っても、発見が生活の延長線にある友人たちから見れば同じ喜びなのだろうと思う。私は、どんな目で観察するか迷っていた。ここ数ヶ月、写真を撮れない時期があった。人の批評を恐れて、観察することをやめてしまっていた。

旅行中、先輩からカメラのフィルムをもらった。私が普段使っているものを探してくれたようだった。私は何かに期待しない、自分にも期待しないような性格だが、無条件で人から期待されているということを実感した。私は撮らなければいけない。

沖縄滞在3日目、無人島についた。ただ友人と遊ぶための場所。ネットも見ず、何も考えず、心を無にして遊ぶ場所。遊ぶことしかできない場所。

友人のこんな表情が大好きだ。

眩しくて、直視できない景色。

いつも夢を見ているような友人が言っていた。「生まれて初めて、やっと現実に来たみたいだ。今しっかりと現実をリアルに感じる。」難しい感覚だが、私たちにとってはそのくらい、普段の生活と隔離された、この空間の体験が快感となる。

思い出写真と言われてもいい。写真集に載るような作品にならなくてもいい。

難しいこと考えて、目の前の時間を否定して何になるのか、

この夏は、なぜか一生終わらない気がする瞬間がある。自然に飲まれ、気が遠くなる時。しかし、気づくと旅は怒涛の情報量で過ぎ去っている。遊んで、疲れて、寝る。それだけの時間、今しかできないこと。考えている暇はなかった。

普段自分の写真に自分が写っていることはない。だけど今回は数枚紛れていた。旅行メンバー全員で記念写真を撮るために、セルフタイマーを自分で押し、試しに撮った一枚。

フィルム写真だからちゃんと写っているか確認なんてできないのに、わざわざ走って写真に写り込んだ。その自分がこんなに楽しそうなら、何よりも価値のある行為なんじゃないか。
批評に怯え、世間の「しなくちゃいけないこと」に怯え、これでいいのかと立ち止まる時間。必要なことかもしれない。

だけど、シャッターを押してみんなのところへ走っていく数秒のかけがえのなさには、どんな時間も勝てないんだ。


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明日は晴れます。
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詩園

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コメント2件

よかった、やっぱりしおんの文章大好きです。残してくれてありがとう。
凄く良い!写真が飛び込んできました。
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