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今敏『パーフェクトブルー』を見て平成最後の夏に将来への不安を感じた(ネタバレ)

8/24。なんの気なく、ずっと気になっていた今敏監督の「パーフェクトブルー」を手に取った。

見終わった後Twitterを見ていたら、「今敏」というキーワードがTLに流れてきた。
奇しくも私は図らずして、今敏監督の命日に、今敏監督の処女作を目にしたのである。

パーフェクトブルーのあらすじ

1998年、今敏監督の初めての監督アニメ映画。
主人公は、アイドルとして芽の出ない活躍を続ける未麻という少女。彼女はある日のライブを最後にアイドルを辞め、女優の道へと進むことをファンに告げた。


女優として始めての仕事であるドラマの撮影はお世辞にも大役とは言い難かった。元アイドルという立場ながら、ストリップ女優としてレイプシーンを演じる未麻。
そんな彼女の身に不思議な事が起こり始める。殺意のあるファックスや手紙、そして身に覚えのない、自身の日記が日々綴られていく、「未麻の部屋」というホームページ。誰かが監視している、そんな気を起こさせる不気味な日常に、 未麻は少しずつ狂っていく。

「自分は誰なのか」という永遠の命題

カフカの「変身」。太宰治の「人間失格」。「私ってなんなんだ?」「私が思う私は、周りが思う私じゃない」「自分で自分が分からない」。

「自分とは何か」という問いは、いつの世も、どれだけ科学が発展しようとも解決しない。

パーフェクトブルーの主人公未麻は、「アイドルになりたかった自分」と「業界で生き残るための女優としての自分」とに、大きな理想と現実の乖離があり、それが彼女をおかしくさせていく。

人間なんてみんなそうだ。本音と建て前があり、誰しもに本音を言わない、こと日本では言わないことが美徳とされている。
自分の本音は静かに隠して、周りにはバレないように建て前で笑顔を作れるのが「大人」で、仕事では自分の素を隠すのが「当たり前」なのだ。
そりゃあ気もおかしくなるというものじゃないですか?
学生までは、「私の素」を知っている人と、こぢんまり仲良くしていられればそれで成り立っていた。それが社会に出ると、仕事としての「建て前の自分」を作っている時間のが長くなる。
建て前がうまく作れるようになると、今まで接することがなかったような人と仲良く話す機会ができる。しかしそれは結局作った自分で仲良くなった相手だから、「素」を理解してもらえることはないのかも、と怯えたりする。

誰もが「内在的自分」と「対外的自分」を持っている。これをうまくコントロールできる人が、社会で強い人なんだけど…ここが大きく離れていくと、「多重人格」だとか「統合失調症」だとかいう病名が付くわけだ。

「素の私」が評価されないと、自分で自分を認めてあげられなくなる

建て前の自分はいつもより愛嬌がよかったり、本当ならやりたくないと思うようなことでも「やれる!」と言ったりする。
そういうところは、評価されやすい。頑張っているんだから、当たり前なのだ。
しかし、そちらばかり評価されるようになると、本当にそこにいた素の自分が置き去りになってしまう。
そこで、わからなくなってしまうのだ。

「建て前の自分は楽しんでいる。ならこの私でいるべきなのだろうか」
「今までの私はダメだったんだから、このまま変わらなくちゃいけないんだ」

そうして、葛藤するのだ。本当の自分と、人から見える自分。どっちも大切にすることは難しくて、素の自分を優先すると「結局私は変われない」と素の自分を責める。人から見える自分を大事にすると、なんだか自分が空っぽになってしまったような、本当の自分を置き去りにしてしまったような虚無感を感じる。

「ゲスライター」という肩書と本当の自分のギャップに悩んだアラサー


自分の話でいうと、私は2018年7月まで「ゲスライター」という肩書を自負して仕事していた。

理由は「キャッチーだから」に尽きる。まあそれだけではないんだけど今回の話ではこれでいい。

フリーライターという仕事上、何か覚えやすい「名前」がほしかったのだ。だからつけた。人から見るとそれは「エロについて詳しい人=性に興味のある人=ヤレそうな女」という単純な公式ができるので、ずっと悩んでいた。

本当の私は、小学校からゲームオタク、ユーチューブではユーチューバーより音楽ばかりディグして一人でニヤニヤし、原田マハやよしもとばなななどの女流作家の本を読んでは涙する、そんなインドア女だったのだ。

しかし、フリーランスになり、これまで嫌いでほとんどいかなかった飲み会に行くようになり、人にお酌し、酔っ払って騒ぐ場で、「馴染める私」を作り上げた。

やってみると意外にできた。「なあんだ、私意外と社交的だったんじゃん」と。それで取れた仕事もたくさんあった。しかし、1年やってがたが来た。飲み会帰り、言いようもなく悲しくなるのだ。飲み会に時間を取られ本を読む時間がない、前ほど何かに心揺さぶられることが少なくなった。

変わった、なのか、無理をしているのか、自分では分からなかったのだが、体に先に来たので多分無理をしていた。体調を崩すまで、気が付かなかったのだ。

「理解されたい」メンヘラ女のまま、30代になるのかな

結局、私には「ゲスライター」は向いていなかったので、辞めた。そういうものだ。死ぬほど営業向いてないな〜と思う人とか、一刻も早く無理せず辞めたりしていいと私は思う。

「割り切れよ」と言われても難しい。「公私」とかいうが、どっちも私なんだ。切り分けのうまい人の中には、あまり「自分らしさ」というものに興味がない人が多い気がするので、もしかしたら「私ってなんなんだ」なんて考える時点で負けなのかもしれない。

「こじれ」とか言われるやつには、自己承認欲求の強いヤツが多い。私も含めて。わかって欲しいのだ。自分で自分に自信がないから、誰かに認めてもらうことでやっと「生きてていい」と思えるのだ。

しかし、私は今26歳。あと4年で30歳。

いつまで子どもみたいなことを言っているのだろう。8年一人で暮らし、自分で仕事して、楽しいと思うことでお金を稼いで、好きなものを買って。生活上自立している。これ以上、人は私の何を認めてあげればいいのか、分からないと思う。

だから、人は誰かに「認められなくてはいけない」という思いこみから開放されなくてはいけない。それはただの「甘え」なのだ。自分の決断力や、判断能力の低さが原因だ。

「パーフェクトブルー」の未麻は弱い女だ。迷ったままアイドルから女優に転身し、「その選択は間違いだったのかも」と永遠に悩み続けている。

私も同じだ。「来年は稼げているのかな。30になっても一人かな。なら定職に就くべきだろうな、あの時結婚しとけばよかったかも。」

答えのない後悔は時間の無駄だ。後悔したと思うなら、「何がだめだったのか」探さねばいけない。たられば言ってるだけなのは、その場をすっきりさせるロキソニン的な効果しかない。時間の無駄だ。

それではいけないんだと思う。30というのは一つの区切りだし、今年は平成最後の夏だ。迷い悩むのが人間ではあるが、20代後半は忙しいのだ。物事の判断基準は明確に持っておかないと、いつまでも後悔する。

「パーフェクトブルー」を見て決意した。仕事ばかりしていてはダメだなあと。忙しいことを理由に、人は考えることを放棄する。インプット体験があって、やっと何か考えなければならなくなって、考える。

平成最後の4ヶ月は、「コト体験」を増やそう。たくさん考えて、今年のうちに、自分の芯をもっと固くしよう。

信念は人を強くする。信念を持てば、それは「私」になる。流されて生きることのできない人間は、そういう外堀をしっかり埋めていかなければいけないのだと思った。

最後に。パーフェクトブルー、めちゃめちゃおもしろいです。話題になった洋画の「ブラックスワン」とか好きな人は手にとってみて。

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