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「別れに慣れる日」なんて、きっと来ない。

「退職が決まっている人」は、普段の様子とちがうことがよくあります。

気が抜けたようになって仕事に身が入っていなかったり、「実は前々から思っていたんだけど…」と不満や心残りなことを伝えてきたり、逆にいつもは言わないような感謝の言葉を述べたりすることがあるのです。

その中で、吉野さん(仮名)の辞め方は異色でした。淡々と仕事をして、ひっそりと辞めたのです。まさに「立つ鳥跡を濁さず」という言葉が思い浮かぶような一日でした。

私は放課後等デイサービスという、障害児向けの学童のような場所で働いています。今年で三年目の職員です。

吉野さんは50代の女性で、お子さん二人はもう大学生。5年前までは専業主婦でしたが、「そろそろ子ども達も手が離れたから」と、仕事を再開した方です。今年でもう六年目の先輩です。

吉野さんは、いつも笑顔で、人当りがよく「苦手な人」はあまりいなさそうに見えます。子どもがどれだけワガママを言ったり、行動で困らせようとしたりしても、感情的になったところは見たことがありません。根気強く優しく接する方です。

12月27日は、そんな吉野さんの仕事の最終日でした。

子どもたちは26日から、学校が冬休みに入っている子がほとんどなので、朝10時から来ています。

午前中は、みんなで大掃除をしました。

11時から1時間くらいかけて子ども達と一緒に、ほうきとちりとりを使ってごみを集めたり、誰が早くぞうきんがけをできるのか競ったり。レース形式にすると、一気にやる気を出す子どももいます。

吉野さんはいつもと変わらない様子でした。子ども達のとりそびれたごみをそっと集めたり、なかなか参加できない子に声かけをしたりしていました。

もし、施設長から「吉野さんは今日が最後です」と知らされていなければ、ふつうに最後と知らないまま別れていたと思います。そのくらい自然な様子でした。

そして、12時になって、お昼休みの時間帯になりました。職員は交代で昼食をとります。まずは、吉野さんが休憩に入りました。次に、少し時間をあけて私の順番でした。

「お疲れ様です。」と声をかけて、休憩室のドアをあけると、そこには昼食を終えて、文具の棚の整理をしている吉野さんがいました。

誰かが使いっぱなしだった絵具をしまい直し、とりあえず置かれたマスキングテープを正しい位置に戻し、ぐしゃぐしゃっと投げ込まれてバランスを崩しそうになっている画用紙を整える。

何の変哲もない、片づけの作業です。

それでも、不思議なくらいこのシーンが心の中に残りました。何かの儀式を眺めているような、厳かな気持ちになったのです。

―――――きれいだな。

すっと背筋を伸ばしたうしろ姿。ゆっくりと音を立てずに物を手にとり、また、しまい直していく丁寧なしぐさ。そのどれもが、「職場へのお別れ」を告げているように見えました。

一つ、また一つとものをしまっていくたびに、思い出も整理しているようだったのです。

その様子を見て、私は初めて「ああ、この人は本当に今日で仕事を辞めるんだな」と実感しました。

こんなに静かなお別れの告げ方もあるんだ。

私は離職率の高い職場でばかり働いてきたので「人が辞める」ことには慣れたつもりでした。

いっときセンチメンタルな気分になったとしても、少しずつ記憶は薄れていきます。誰がいなくなっても、職場は回りますし、また新しい環境に慣れていきます。

いつだって同じサイクルでした。これからも、そのプロセスは変わらないでしょう。

その上、私は吉野さんに対して好感を持っていたものの、特別親しかったわけではありません。言ってしまえば「職場仲間」としてお付き合いをしていただけです。

それでも、今日の吉野さんの凛としたうしろ姿は忘れがたいです。

もしかしたら、大人になっても「人との別れ」に慣れることなんてないのかもしれません。毎回、悲しんでいると心がもたないから、少しだけ痛みに鈍感になっただけ。「仕方ない」と自分を説得するのが上手になっただけ。

そう、今も悲しいことに変わりはない。特別な関係でなくても。

吉野さんが、なぜこの仕事を辞めることになったのかは、最後まで明かされませんでした。本人は「職員にも、子どもにも、伝えずに辞めていきたい」ということを強く希望していたのです。

あんなに子どもを好きそうな人に見えたのに、仕事もうまくいっているのに、健康も特に問題がなさそうなのに、なぜだろう。

そういうもの、なんでしょうか。

吉野さんは勤務時間が終わって、タイムカードを押したあと、職員ひとりひとりに対してお礼を言いながら、贈り物を渡していきました。そこには、手書きのメッセージが添えられていました。

贈り物の中身はリーフパイとお茶でした。

「最後のごあいさつの贈り物」として渡されたリーフパイ。サクッと軽くて、甘くて儚い味。

もったいないけれど、早く食べてしまいたい。だって、見るたびにチクリと心が痛んでしまうから。

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