見出し画像

ただ、いまここ

ちょうど一週間前。私はお茶の師匠とけんかをした。

師弟関係で「けんか」だなんて偉そうにも程があるのだけど、あの様子を形容するふさわしい言葉をさがそうとおもうと、やっぱりけんかだった。

実は今年になって、私は茶道の中伝(ちゅうでん)という階級のお稽古をつけてもらうようになった。

これは、本気でお茶の道を志す人にしか教えてもらえない、難しくて厳しい、それでいてかなり高尚なお点前だ。

中伝の稽古が始まる前、先生は同格の生徒たちを茶室に改めて集合させ、これからも茶道を続けていく気があるか、そして数年後に「看板を取る」意志があるかを確認した。

お茶の世界で「看板を取る」というのは、他者に茶道を教える許しを家元からいただくことだ。
この許しが出ると、自分の本名以外に茶人としての名前である茶名と、家元が直筆した看板が渡される。
この看板を掲げれば、家で茶道の教室を開くことができる。

だから、「看板を取る」ということは、茶道を習う上での大きな節目にあたるのだ。
ちなみに、看板を取っても多くの人がそのまま師匠のお教室に通い続ける。
むしろ看板を取ってからが、お茶を本当に学ぶためのスタートラインなんだそうだ。

さて前置きが長くなってしまいました。
そんな、お茶の本質的な世界につま先をちょこんと入れたようなこのタイミングで、私は師匠とバトってしまったわけだ。

師匠はとても愛のある人で、茶道を学ぶ上で、私たち生徒が「立派な」人間になれるようにといつも願っている。

そして、一体なにをもって「立派」なのか。そのことについてもその都度一緒に考え、時に厳しく苦言を呈してくれるような存在だ。

そんな師匠から、突然、次の稽古は同期メンバーとは日程をずらして、個別で行うと伝えられた。

そもそもお稽古場は故郷の栃木県にあって、私はほぼ毎週、東京から電車で通っているような状況だ。

単純に稽古の数が足りないからなのか、それとも師匠は私に何か伝えたいことがあるのか。

どちらにせよ、個別で稽古をつけるなど(ましてや、炭を使わなければいけない”炉”の季節に)非効率的なことを師匠自ら提案してくれているというのは、多分よくないことだった。

そして先週の金曜日。
「なんだか呼び出されたぞ」くらいに思っている私は、やっぱりお点前の出来が全然だめだった。

教えてもらったことが、すぐに動きに反映できない。
「だめだだめだだめだ…」と思いながらも一通りお稽古が終わったタイミングで、師匠がただひと言「分かった?」と聞く。

「わかりません。なんにもわかりません」
自分でもなんでこんなこと言ってるのか、そもそもそれ自体、わからなかった。

なんで私だけ一人で稽古をつけられたのか、
まるで無能かのように厳しく指導されなきゃいけないのか、
ついでに、昨日うまく書けなかった原稿や、
しっくりまとめられなかった記事広告の企画のことも頭をよぎる。

お茶も仕事も好きでやっているのに、どうしてこんなに辛いのか、周りは私に何を求めてるのか、もうほんとに「なんにもわかりません」だった。

社会人になってからの私にとって、仕事とお茶はいつも紐付いている存在だった。

先生にお稽古で怒られたこと(例えば基本を忠実にとか、細かいところに気配りができてないとか)は、だいたい直近の仕事でも同じ理由で失敗してたりする。

そんなだから、お点前しててもずっと仕事のことを考えていた。

「わかりません事件」を起こしたその日、この際どうにでもなれと思って、師匠にそのことを打ち明けてみた。
お稽古中にお茶のことだけを考えられていたことなんて、ここ数年ずっとない、と。

そうしたら「あなた器用ねぇ…」と苦笑して、師匠はこんなことを言う。

「お点前をする場所に座ると、お茶のことしか考えられないものよ。ここに座ると、日々の大変なことも一度全てなかったことにして、お稽古するの」

✳︎

そういうことか。

私は「目の前のこととただ向き合う」というのがどうも苦手だったみたいだ。

さて、今日も今日とて、個別でのお稽古をしてもらってきた。

先週と違うのは、「お茶の時はお茶のことだけを考える」という誓いをしただけ。

するとあら不思議。なんだか肩の荷が降りて、先週できなかった難しい所作もスルスルとできる。

先生の指導もすっと身体に入ってくる。

先のことを考えすぎて、停滞したり後退することもあるんだなって思った。

調べてみると、どうやら禅語には「而今(にこん)」という言葉があるようだ。

カメラのブランド名じゃなくて、これは「いまここ」という意味。

迷いそうになったら今度からそうしよう。

ただ、目の前のことに向き合う。

#ひとりごと #日記 #エッセイ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?