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◆0 そんなもん

他者の闇に、たまに、辛いくらいに気づいてしまう。

ふとした会話のなかで語られる些細な出来事、ことばの選び方、SNSでの深夜のつぶやき、その他とりまく環境。
そういう断片を無意識に拾い集めて、勝手に他者の苦悩を想像してしまう。

勘にも似たそれらは、相手のことを大切に思えば思うほど精度が上がって、だいたい的中してしまうから、かなしい。

中学生の時、「この人、心が壊れていそうだな」と思っていた担任の先生にひと気の少ない階段ですれ違って、「お前が心の支えだよ」と言われたときはさすがにびっくりした。

あの時はちょっと怖くなって、純真無垢なふりをして「えへへ何を言ってるんですか」ってきゃぴきゃぴ切り抜けた。

言葉を発せない犬みたいだな、とたまに思う。

「あなたが辛かったこと、わかる気がしてる」なんて言えるわけないから、まるでしっぽを振るようにニコニコしていることが多い。

それに、中途半端に人を助けることなんてできない。ドライなのかもしれないけど、わたしにはそういう一面もあるんだと思う。

だけどたまに、ふと吐露してくれる人がいる。
たぶん誰にでも話すわけではないことを、「今日ならいいかな」と突然話し出してくれる。そういう人たちのことが、わたしはけっこう好きだ。

「理由なんてそんなもんなの」

心の中でそう言い、雑巾を絞ってカウンターの水拭きをはじめた。

無責任に悩みを吐露しても、それに対して深いのか浅いのか分からない返しをしても、なんだかんだ丸く収まる場所が「小料理屋」なんだと思う。

約束もなく立ち寄ってもらえるところもいい。来たはいいけど何も話さない自由だってある。こっちだって自分から根掘り葉掘り聞くような趣味はないし。

わたしはたぶんいつもここにいるから、毎日でも、唐突に気が向いたときにでも、あなたのペースでやって来てくれたらうれしいな。

理由なんてそんなもんよ。

ガラガラガラ…

木製の古めかしい引き戸が開く音がして、
反射的に「いらっしゃいませ」と言う。

今日から、ひっそりと小料理屋をはじめます。
お店の名前は「夜更けの庭で」。


▼もうひとつのおはなしはこちらから
◇0 こんな夜更けに。

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