自分の感受性くらい
自分の感受性に飲み込まれそうになるときって、みんなどうしているの?
何か形にしなければ、私の感情はときたま循環不良を起こしてしまう。
でも、形にした瞬間に「こうじゃない」って思うばかりで、ほんとうに大切なことは形として完成させるのはイヤで、その未完成さのまま「何となくわかるよ」って言ってくれる人に静かにとなりにいてほしい。
目に見えるものにしたとたん、その美しさが失われそうでこまる。
でも、「自分だけわかっていればいいや」ってのもだめ。
そうやって駄々っ子みたいなことを考えてしまうときこそ、感受性は研ぎ澄まされていったりするから皮肉なものだ。
そして反対に、心は貧しくなっていったりもする。
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
大好きな、茨木のり子さんの『自分の感受性くらい』
「ばかものよ」って突き放すようでいて、「自分で守れ」っていうその言葉で、強く「それでいんだよ」と後押ししてくれてると思っている。
正しさとか大衆とか需要とかそういうところから離れた場所で、ちゃんとあるべきものとして自分の感受性を守っていけたらいいなぁ。
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