たった一度の人生だもの

雇われて、働いて、稼いで、そのお金でもって欲しいものを買う

至って普通の、誰もが経験したことのある、シンプルなプロセス。何かが欲しい!と言った時に選ばれがちな手段。

なんでだろう。なんだかしょっぱい。何かが欲しい時なったとき、この手段でしか物を手にする方法を考えなくなってしまうの、とてもしょっぱい。

マーケットは物事をとてもシンプルにした。効率よく、物の配分を可能とした。自分1人じゃ得られないものを得られるような仕組みを作り、とんでもなく遠くから物を運んでくることをすらも可能とした。

一方でその効率が、発芽するかもしれない人のポテンシャルを何かの型に押し込んでしまったかのように感じる。

ものは作るものじゃなく、購入するもの。身の回りをちょっと見渡して、あれってどうやって作れるんだろうと考えてみるだけでも面白いのに、そんなの考える必要もない。人間が持つポテンシャル、創造性や感性、感情はそこら中で発芽する可能性を秘めているのに、自分の見る世界をもっともっと色鮮やかにする可能性を秘めているのに。そんなのは置き去りだ。

置き去り、というかどうやらみんな忘れてしまったみたい。

こう言う感情ってマーケットだけじゃなくて、社会を回すって言う言葉に対しても当てはまると思う。社会っていう存在が求めているらしいものを、僕ら人間が歯車となって回している。その、求められているものを一つ一つこなすこと。そうするとお金が手に入り、いい感じの生活が可能となる。
これだけ身の回りに色鮮やかな美しさや、素敵な出来事が転がっているのに、そこには目が向かない。見えるのは、目の前だ。

それでも俺がこの仕事をしないと社会が回らないんだ!と、いうあなた。そうかもしれません。でも、社会ってなんですか。その全貌を、あなたは語れるのでしょうか。

もしかしたら、あなたの言う通り、歯車が欠けてその不確かな社会ってやつが回らなくなるのかもしれない。そしてそれは肌で感じられるものなのかもしれない。

でもその社会ってやつは僕ら人間が存在しない限りは存在しないのでしょう?僕にはまだその社会ってやつが分からない。社会に出ればわかるよ、と言ってもらえることはあるけれど、そうして分かるのは「社会を回すために与えられる役割ってこんなものなんですよ。みんなそれをやっているんですよ。」ってことが分かるだけなような気がしちゃう。

たった一度きりの人生。限られた時間をどう使っていこうかな。
少なくとも、その不確かな社会ってやつをしっかりと知らない僕は、それを回す作業に時間を費やすことにとても大きな恐怖を感じる。怒り、悲しみ、恐怖。たくさんの人が、何をどう感じて生きているのかは分からないけれど、ぼんやり社会ってやつにはまって生きている人が多いように思う。そんな状況を前に、僕はそんな感情を抱いてしまうのです。

自分は考えがよく変わるし、今こう書き記していることが後々どう変わっていくのか分からない。ましてはこれから就活をする可能性を秘めている立場として、こんなことを書くのはとてもリスキー、な感覚もある。これから先、自分はどんな選択をしていくのか分からないけど、もしくは就職していくのかもしれないけど、いま感じた気持ちを何となく書き記しておきたくて。なので、ここに記します。

#エッセイ

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