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徳光康之:『最狂 超プロレスファン列伝』

マンガはずっと好きだった。
40歳をとうに過ぎた年齢になってもマンガが好きだ。

「大事な事は、全てマンガから学んだ」

そんな、何かのキャッチコピーに使われたような気がする位、誰もが思いつくフレーズが、俺の中には、正真正銘の真実として存在している。

そんな俺のマンガライフは、小学生の頃、少ないお小遣いの中から『コロコロコミック』を買うところから始まった。

中学生になり、順当にお小遣いも増やしてもらい、『コロコロコミック』を卒業した。
と同時に、他のマンガ雑誌を買い始めた。週刊誌だ。

それに加えて、中学の何年生頃だったか『月刊少年マガジン』を買い始めたのだ。
その時のお目当ては、『修羅の門』。
このマンガは、俺の人生に大きな影響を与えた。
これは全く大袈裟な表現ではなく、言葉通り俺の人生に大きな影響を与えてくれた。
もちろん、その当時に中学生だった俺にそんな事が分かるはずは無かったんだけど、今から振り返ってみると、俺の人生の方向性を大きく決定づける決断に関わってくるような影響を与えていた。

『修羅の門』

言わずと知れた、“格闘マンガ”というジャンルに於ける伝説的なマンガだ。
マンガ好きを自称する人の中でも、“格闘マンガ”若しくは“バトル系マンガ”というジャンルに触れていない人や、このジャンルが苦手な人もたくさんいるだろう。
だけど、マンガ好きを自称して“格闘マンガ”も得意ジャンルとしてマンガを語っている人達の中で、もしこのマンガを「知らない」「読んだことない」と言う人がいたとしたら、今すぐその看板を降ろした方が良い。これは断言しておく。いや、「~方が良い」ではない。
今すぐ、降ろすべきだ。
そう強く言いたくなるほどに、この『修羅の門』はこのジャンルに於ける“別格”と言えるマンガだ。

“格闘マンガ”にカテゴライズされる場合、作品によって多少の違いはあれど、作中では必ず“強さ”を表し比べる必要が発生する。
その際に、現実の格闘技や武道武術を無視してマンガ表現を成り立たせる事はできない。
例え、どれだけの筆力をもってファンタジーを描くとしても、その対比の基準として現実世界の格闘を比較対象に並べる事でしか、その“強さ”を描く事はできない。
そして、この『修羅の門』というマンガは、リアルな格闘技界をマンガ世界に置き換えた世界観をベースにして話が進んでいる。
そのベースがありながらも超絶ファンタジーがリアリティを持って存在している。
そして、そのファンタジーとリアリティが絶妙なフュージョンを起こしている。
それがこのマンガの最大の魅力だ。

そこに、作者の意図とは別に(いや、別では無かったのかもしれないが)、現実世界の格闘技界の流れがこの世界観を後追いしていったという事が起きたのだ。
信じられないかもしれないけど、当時の格闘技界では、そんな事がリアルタイムで起きていたのだ。

そんな、マンガ界の一ジャンルに於ける伝説的な作品を、俺は愛読していた。

その『月刊少年マガジン』を買い続け、中学生だった俺は、高校生になった。
もちろん、高校生になってもマンガを読む事は辞めてはいない。
それどころか、マンガを読む事が、ある意味では俺を形成する大きな柱になっていた。
多くの高校生は、“高校生活“や“部活“や“友達との絆“など、様々な青春の要素がたくさん転がっているはずだ。それなのに、俺はマンガを読むこと。
「高校生にもなって」もしかしたら、周囲ではそんな感想があったかもしれないけど、その頃の俺にはそんな世間一般の考え方や価値観はどうでもよかった。
というか、自分以外の人が言う事や考えている事に思いを馳せるという事ができなかったというのが正しいんだと思う。

何故なら、その頃の俺は“腐っていた“から。

それまで、自由奔放に生きていた俺は、友達や家族から何か言われても特に何も気にせず何も考えずに目の前にある事や、やりたいと思った事だけをやって暮らしていた。これは、自覚もあるし周りからそう言われていた記憶があるので間違いない。
そんな俺を傍から見ていた家族が、ある日を境に俺に“気を使っている”事に気付いた。俺自身が、明確に感じられる程度には。自分で自覚し、家族が気を使っている事を感じていながらも、自分ではどうしようもできない位に腐っていた。
理由は、今から考えると、どうという事も無いような話だ。
だけど、その当時の俺には大きな出来事だった。
俺自身がそう思っていたし、俺に気を使い始めた家族からも「これは大きな出来事なんだよ」そう言われている気がしていた。

俺は、高校受験に失敗した。

高校生になった俺は、毎日の通学を苦痛に感じていた。
最寄駅まで自転車で20分、そこから電車で40分、そして駅から徒歩15分。
これでようやく、“行きたくない”学校に到着する。
“行きたくない”学校に向かう為の、苦行ともいえるこの時間。
合計75分間の俺の中にあるのは「嫌だ」という感情だけ。
あの頃の俺にとって、電車の中で黙々とマンガを読む時間、その時間だけが「嫌だ」という感情を忘れさせてくれる唯一の時間だった。
そして、月に1度の発売日だけ、いつものラインナップに『月刊マガジン』が加わった。

“受験に失敗した高校生”
“バカ”
“マンガ好き”
“プロレスファン”
“格闘技好き”
当時の俺が自分自身について語るとしたら、これくらいのモノしか自覚していなかった。
そんな俺が、反応するには、『修羅の門』はうってつけのマンガだった。
強い“バカ”が出てくる。“強い”プロレスラーが出てくる。“強い”格闘家が出てくる。
現実の「嫌だ」と感じているこの世界から一時でも目を背けるには、主人公の“陸奥九十九“が”強い“ライバル達と闘うその姿に憧れて、ハラハラして、ワクワクしている瞬間は本当に楽しかった。

だけど、

その当時、「嫌だ」と思いながら高校に通うだけで、格闘技どころか運動すらもやっていなかった俺にとっては、どこか別世界で起きている自分には全く縁もゆかりもない空想の世界を題材にしているという事を自覚しながら読んでいたマンガだった。
現実のプロレス界、格闘技界の情報を追いながら、マンガの世界の格闘技事情も追う。
空想の世界を楽しみながらも、自分自身とは何もリンクしない。
俺の想いだけが空しく漂っている世界のおはなし。

そんな、高校生の俺に必ず訪れる、通学中の月一回のお楽しみ。
その最中に、出会いは唐突にやってきた。

連載開始したマンガの第一回目。
主人公は、“プロレスファン”だ。
書き間違いじゃない。
「主人公はプロレスラー」ではなく、
もちろん、
「プロレスラーを目指している少年」でもない。
主人公が、“プロレスファン”であるマンガが、連載で始まったのだ。
俺がそれまでのマンガライフの中で初めて遭遇した形態のマンガだ。
マンガの主人公が、何者でもなく只の“プロレスファン”の大学生。
題材はプロレスファンであり、出てくるのはプロレスファン。
マンガの中にプロレスラーが出てくるとしたら、回想シーンだけである。
主人公が、地元の九州から大学入学に伴う東京への上京から幕が上がる。
そして、初めての1人暮らしを開始する部屋の荷解きと上京初日の暮らしで、第一話が終わる。
今、このブログを書きながらあらためて読み返してみた。
そこに描かれているのは、俺の過去の記憶の通り、たった一つの事だけだった。

それは、このマンガの題名にもなっている「プロレスファン」について。
そして、「プロレスファンの想い」についてだ。

“人間室内アンテナ”
“竹刀ごっつぁんです”

第一話は、この2つの単語で全てが語れる。
もちろん、このマンガを読んだ事が無い人には何のことやら全くわからないだろう。
だけど、この第一話を読んだ人であれば、これだけで全てが語れるという事を理解してくれるだろう。そして、これだけで語れるけど、これだけで“延々と”語れるという事も理解してくれるだろう。それくらいに、プロレスファンの想いが詰まった第一話だ。

俺は、プロレスファンじゃない人との会話中にプロレスの話題に触れる時、冗談として、こんな事を言う。
「プロレスについて話していいの?最短で今から3時間かかっちゃうけど大丈夫?」
もちろん冗談ではあるけど、実際にプロレスの話をする場合には、3時間程度は延々話し続ける事ができる気がする。
これは恐らくプロレスファンであればみんな同じ想いを判ってくれるはずだ。

当時高校生だった俺も、このマンガの主人公と同じく“プロレスファン”である。
そして、このマンガの主人公である鬼藪宙道(きやぶちゅうどう)も、ただの“プロレスファン“だ。それ以外の何者でもない。
敢えて言うなら、
主人公の鬼藪宙道は大学生。
そして、
読者の俺は高校生。
共通するものは“プロレスファン”である事以外は何も無い。
出身地方も違う。
所属する学校のカテゴリーも違う。
ひとり暮らしを始めた大学生と、親の世話になっている高校生。
これからのプロレスファン生活に意気揚々の大学生と、
受験に失敗した事を悔やんで腐り続ける高校生。
何もかも違う。
だけど、“プロレスファン”である事は、一緒。
それだけが、一緒。

でも、それだけで良かった。

「プロレスが好きである」
その事だけで、九州から上京してきて大学生活に希望を抱いている若者がいる。
その事だけで、超有名月刊マンガに連載を持つ漫画家がいる。
その事だけで、辛い事にも耐え苦しい事も乗り越える事ができる。
その事だけで、苦手な“人前に出る”を克服したヤツがいる。
その事だけで、自分の好きなモノを好きでいる自分を誇らしく思える。

そんな、様々な事を、俺に教えてくれるきっかけになったのがこのマンガだ。

もちろん、当時はこんな事を具体的に考えていたわけではない。
ここに書いたのは、全て、今の俺があの頃を思い出して書いた事だ。
だけど、
あの時の、まだ自分の言葉を全く持っていなかった頃の俺が、ずっと抱えていた想いはきっとこういう事だったんじゃないのか。
あの頃の俺が、受け取りたかったのはきっとこういう事だったんじゃないのか。

だから、あんなに鬱屈していた気持ちの中でも、このマンガは常に忘れる事無くずっと覚えていたんじゃないのかな。

当時の月刊少年マガジンの中で、『修羅の門』と同じレベルで楽しみにしていた『超プロレスファン列伝』。
連載期間はとても短かった。今、ネットの情報を確認したら1年半と少しの期間。
月刊誌でこの期間という事は、回数にして16回程度。
当時読んでいた期間に発行された単行本は3巻まで。
そこで打ち切り。
あの時、打ち切りになった時の気持ちは覚えていない。

でも、その後、たくさんの格闘技ファンやプロレスファンと、好きなマンガについての話をしてきたけど、『修羅の門』ファンは数多いても、『超プロレスファン列伝』ファンには、ほとんど遭遇しなかった。
「あー、そんなマンガあったよね」
と何度言われた事か。
その度に感じていたあのちょっとの寂しさはずっと覚えている。

学生生活を終えて、社会に出て何年か経った頃、俺は都内で一人暮らしをしていた。
はからずも、あの頃に大好きだった、鬼藪宙道のように夢の都内での一人暮らしだ。
あれからもマンガはずっと好きだった。
様々なマンガに出会って、鬼藪宙道の事をすっかり忘れてしまっていた時期もあった。
その頃は、時間ができたら池袋のジュンク堂に立ち寄っては、マンガの棚を覗く事が趣味の一つになっていた。
そしてある日、この単行本を見つけた。

『最狂 超プロレスファン列伝REVENGE』

あの頃大好きだったマンガの復刻版だ。
もちろん全巻(とは言っても4冊だけど)その場でレジに持って行った。
あの時、池袋のジュンク堂でこの単行本を買ってから約20年が経つ。
今でも、このマンガを読み返すと、プロレスファンになった時の事から現在までの事を思い出す。

このマンガに書いてある様々なプロレスの試合は、俺はほとんど生で観ていない。

だけど、

当時、この世界に多数存在していたであろう“プロレスファン”達の想いが、このマンガを通じて、当時の熱を持って、伝わってくる気がする。
その熱が、
その思いが、
俺が実際には観戦していない数々の試合や、
当時のプロレス界の風景や空気感を、
“俺の”というか、
“プロレスファン”としての思い出として、
甦らせてくれる。

そして、
“あの頃”大嫌いだった自分自身ですらも、今の自分を形作るのには必要な経験や時間だったんだと、自分自身に思わせてくれる。

主人公は“プロレスファン”。

そこに流れるのは、愛に溢れた想い。
それだけが、自分自身と、世界を動かす源に違いない。

大好きだった『修羅の門』が、
俺とこのマンガをひきあわせてくれた。

そして、あの出会いから27年が過ぎたけど、今の俺に、これらの事を確信させてくれる。

この事実からも、それが証明されているんじゃないだろうか。

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