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オトナになった皆さんへ。そして、まだ若い皆さんへ。

 

 オトナになった皆さんへ。最近、怒っていますか。理不尽なことや間違ったことにちゃんと真っ当に憤って、声を上げていますか。まだハタチ過ぎの私ですが、最近あまり怒らなくなりました。
 まだ若い皆さんへ。声の届かないオトナに、あきらめてはいませんか。

 負の感情を抱くのには、総じてエネルギーが要る。嫌ったり、憎んだり、失望したり、憤ったり、そのたび私たちは消耗する。だから私たちは、受け流すことをおぼえてしまう。期待しないことをおぼえてしまう。声を上げたら、空気が読めないやつだと思われるかもしれない。面倒くさい奴だと思われるかもしれない。冗談の通じないやつだと思われるかもしれない。だったら、これくらい我慢していよう。そうやって、理不尽に真っ当に憤るより、何事もなかった顔をして日常を守ることを選んでしまう。
 もちろんそれも必要だけど、時々自問してみてほしい。声の上げ方、覚えていますか。上がった声に傾ける耳、どこかに忘れて来ていませんか。
 
 高校の頃、露出狂に遭ったことがある。突拍子もない話で申し訳ない。男性、あるいは今(まーた #MeToo か)(自分には関係ないや)とブラウザを閉じようとしたすべての方、もう少しだけ読んでほしい。今回私が話したいのは性犯罪についてではなくて、もう少し大きなくくりでの話なので、どうかもうしばらくお付き合い願いたい。
 話を戻そう。露出狂には遭ったことがあるというか、度々遭っていたという方が正しい。私の使うバス停に、奴はたびたび現れた。
 初めは一年の夏。次は二か月後。卒業までに何回遭ったのか、覚えていない。白髪の初老の男性だったと思う。できるだけ無視することに決めていたので、顔は正直覚えていない。あぁ、またか。私はいつも見ないふりをした。初めこそ驚きはしたものの、下手に騒ぐ方が厄介なことになるのは目に見えていた。通行人や自転車に助けを求めても、助けてくれるか分からない。そこが電車の中ではないことを、私は知っていた。声を上げれば多くの人に届く電車内とは違って、その一人に無視されれば、あるいはその一人がイヤフォンをつけてでもいて気づかなければ、下手に騒いだ方がかえって危険な目に遭うだろうことを、私はよくよく知っていた。110番に電話をかける?パトカーが来るより目の前の相手が私の腕をつかむ方がよっぽど早いのに?声をあげないこと、そしらぬふりでやり過ごすことが一番の護身になる。考えるまでもないことだった。
 それと、幸い(ということにしておく)奴は私が大人しくしているうちはそれ以上何もしてこなかった。気づかないふりをしていれば、(早く気づけと徐々に距離を縮めてくることを除いては)決してそれ以上の危害を加えてはこなかった。声もかけてこなかったし、手を触れてもこなかった。私は腕時計を見てまだあと二十分は来ないバスを内心うらみ、また、ポケットからスマートフォンを取り出して、奴の動向に全神経を傾けながらも画面を見つめるふりをした。
 二年の夏。私は部活帰りでジャージを着ていた。時間は確か、七時か八時。休日ダイヤで、次のバスが来るまでにはまだ五十分近くあった。五十分も気づかないふりなんてしていられるか、と私は心底うんざりして、学校に戻ろうとバス停を離れ、ようとした。
「ごめんね」
そこだけを鮮明におぼえている。何がごめんだ。アホか。奴は私の右腕をつかんで引きずるように歩き、階段を下り、地下道へ向かった。昼でも薄暗い地下道というと雰囲気が出るが、正直に言うなら、蛍光灯のせいで地下道はむしろ薄暗い昼よりよっぽど明るかった。自分の体を這うオッサンの手を、私は無感情に見ていた。幸運なことに取り返しのつかない事態にならないうちに偶然人が通りかかって、いまだと思って「大声を出しますよ」と声を絞り出したところ、私は何事もなく助かった。
 突然昔語りをして申し訳ない。もうしばらく聞いてほしい。最初に述べておきたいが、私は世の男性全てが悪いとか言う気はさらさらない。実際私の周りには友人や先輩後輩、通りすがりの人まで含め、優しい男性がいくらでもいる。世の中には性別問わずどうしようもない人間がいて、このオッサンもその一人だったというだけのことだ。今回話したいのはそのことではなくて、その後の周りのオトナたちの対応のことだ。
 警察には通報した。学校にも警察から連絡がいったらしい。先生から事情を聴かれたので、私は警察でしたのとまるきり同じ説明を繰り返さねばならなかった。親は共働きで定期は買ったばかりだったし次のバス停まで歩いたところでそちらにはすぐ近くに薄暗い公園が有ったので、おそらく同じバス停を使い続けることになるとも話した。校内では今まで通りスカートを着用するが登下校時だけ男子用制服のスラックスを着用しても良いかと生徒指導部長の先生に聞くと、「職員会議で検討する。決まったら改めて教える」と言っていただけた。この夏から卒業までの一年半私は高校に通い、この先生も異動することは無かったが、結局どうなったのか、いまだに聞いていない。
 警察からは「現行犯でないと逮捕できない」と言われた。まぁ当然である、疑わしきは罰せず。司法の大原則だ。そのため提案されたのは、「毎日警察がバス停向かいの駐車場に車を停めて張り込むので、今まで通り同じバス停を使い続けてほしい。携帯の番号を教えるので、何かあったらかけてもらえれば、現行犯で逮捕できる」というものであった。母は「おとり捜査ということですか」と眉をひそめていたが、このまま奴を見逃すのは腹が立つと思ったので、私はそれを承諾した。警察の方の「捜査を中断する際にはご連絡しますので、少なくともそれまでは安心してバス停を使っていただければ」というのはなかなか良い響きだった。(もっとも、私が高校を卒業するまでの一年半、卒業してから現在までも含めれば四年半、捜査を中断したという連絡は一切ない。果たして四年半ものあいだ、たった一件の強制わいせつ事件のために彼らは張り込みを続けているのだろうか?)

 わかっている。私にも、今ならわかる。彼らには仕事があり、日常があり、私が遭ったトラブルは彼らの生活に重大な影響を及ぼすものではなかったこと。彼らにはもっと他にやるべき仕事があって私のために割ける時間がなかっただけで、悪気はなかったということ。簡潔に言うなら、彼らにとってそれがたいしたことではなかっただけだということ。おそらく私への約束は日々の雑事に追いやられて、抜け落ちてしまったのだということ。それだけだ。仕方のないことだし、当然のことだ。ただ、当時の私はまだコドモだったのでそのことにひどくショックを受けたし、憤慨もした。

 最近、似たようなことがあった。相手はよく知った職場のひとだったけれど、私の体に触れてきて、制止を聞き入れてくれなかった。今回も最悪のことにはならなかったけれど。触れられている間中私が考えていたのは「どうしたら事を荒立てずにこの状況を切り抜け、何事もなかったかのようにここで働き続けられるか」ということだった。相手がプライドの高い人だと知っていたので怒らせないように制止の言葉はかなり選んだつもりだし、突き飛ばすこともしなかった。やんわりと、でも自分の出しうる最大限の力で、可能な限りゆっくりと肩を押し返した。声をあげなかったこと、突き飛ばさなかったこと。相手を逆上させないよう気をつけたのはあの時と確かに同じだった。でも、目的は明らかに違った。高校のころ、自分の身を守るためにそうしたのとは違って、相手の体面を保ち、すべてをなかったことにしようとするためだった。私はまだ学生で、いくつかアルバイトをかけもちしていたのでこの職場をすぐに辞めたってすぐに生活が困窮するような状況ではなかった。それでも、私が動揺しながらとっさに選んだのは波風を立てずにやり過ごすことだった。私ははじめほとんどこのことをひとに話さなかったし、ようやく話した時でさえ笑い話にした。笑いながら面白おかしく、冗談として話した。自分のからだや気持ちを侵害されたことに対して、自分で「大したことないこと」のように振舞った。それはもちろん無意識だったけれど、それに気づいた後とてもショックを受けた。自分にとても失望した。
 あぁ、あの時「大したことない」「それくらい」と言わんばかりのオトナたちの対応に憤った私はもうどこにもいないのだ、とわかった。それどころか自分で自分に「大したことない」「それくらい」というような態度をとっていたのだから。そうして、いつの日か他人にも「大したことない」「それくらい」のバトンを渡していく自分を想像した。

 ほんとうは、「それくらい」なんかじゃない。「大したことないこと」なんかじゃない。こうした犯罪や、セクハラや、パワハラや、いじめや、ひどい労働環境や、そのほか理不尽に嫌な目に遭うことは、「それくらい」なんかじゃ、全然ない。嫌な思いをした時、嫌な思いをしたと打ち明けられた時、「大したことないよ、それくらい」なんて扱いで済ませちゃいけないことはたくさんある。とくにハラスメントの類は、「それくらい」といった周囲の雰囲気によって助長される傾向にある(と、少なくとも私は考えている)。
 ただ、忙しい日々の中で身の回りのすべての人の気持ちに全身全霊で寄り添って全力で助けることは、たぶん無理だ。私たちは超人ではないし、気力も体力も有限である。だから悩んでいる人に時間を割けなくて「大したことないよ、それくらい」というメッセージが伝わってしまうことは、(それがこちらの本意であってもそうでなくても)当然ある。私が高校の頃に憤慨した先生や警察の方も、きっとそうだ。優先順位をつけて有限の気力や体力を使っていただけで、私に「大したことないよ」と言いたかったわけでは、たぶんない。伝えたことと伝わったことが違うなんて、よくあることだ。それをなんとかしろなんて言う気は私もさらさらなくて(もちろんなくせたら理想的だけれど)、私たちは自分たちで思っている以上に「大したことないよ、それくらい」にさらされて生きていると言いたいのである。相手は本心ではそう思っていないのだろうけど、私たちの脳は敏感に「それくらい」を受け取ってしまう。そうしていつのまにか、それに慣れてしまう。優先順位の低さから生じた「それくらい」に慣れてそれが当たり前になると、いつの間にかそれを(優先順位が高いはずの)自分や大切な人にまで向けてしまう。
 だからどうか、自分にだけはそう言い聞かせないでいてほしい。余力があれば、大切な友人や家族、恋人にも。理不尽な扱いに嫌な思いをした時、「大したことない」なんて、自分をごまかさないでいてほしい。つらいと打ち明けられた時、「それくらい」なんて、言わないであげてほしい。具体的な解決ができなくてもいいから、まずは「それは大変だ、重大な問題だ」と自分や相手に言ってあげてほしい。「大したことない、それくらい」を示してくる人は、あなた自身以外にきっといくらでもいるから。

 理不尽にハラスメントの類に遭った人に対して「大したことない」を示すことは「あなたのことなんてどうでもいいです」と紙一重だ、と私は思う。だって、大切な人がハラスメントに遭うことは、大したこと、ある。絶対にある。冷静になれば自分の大切な人が理不尽に嫌な目に遭わされているなんて許しがたいはずなのだ。あなたが解決しなくたっていい。まずは自分や、大切な人に「それは大変だ、重大な問題だ」と言ってあげること。たったそれだけ?と思われるかもしれないけど、これだけで結構違うんじゃないかと、私は思う。
 そして、誰かが声をあげた時、「それくらい我慢しろ」と言わない人であってほしい。声をあげたことを責め立てない人であってほしい。世の中には理不尽なことがたくさんある。多くの人はありふれた理不尽にわざわざ声をあげたり助けを求めたりしないかもしれない。あなた自身も、それらの理不尽に耐えながら生きてきたのかもしれない。でも、理不尽に耐えることはべつに美徳でもなんでもない。
 たとえば、失礼なことを言ってきたくせにこちらが怒ると、「冗談だよ」とへらへらする人。あるいは女性にとてもしつこく言い寄ったくせに無理だと悟ると「本気にすんなよ、ブスのくせに」と捨て台詞を吐く男性(本人の名誉のために、言い寄られていた女性はとてもきれいな人だったことを言い添えておきたい。あと、私が見たのがこの組み合わせというだけで男女逆バージョンもきっとあるのだろう)。「理不尽に不快な思いをした」と言う人に対して「気にしすぎだ(=それくらい大したことじゃないのに、お前が気にしているだけだ。だから我慢しろ)」と言い放つ人は、そこら中にいる。あふれかえるほどいる。しかもそれが、不快な思いをさせた張本人だったりする。しょっちゅうする。お前が気にしなさすぎるんだよ!!!!!と叫びたい気持ちになる。昔の私はこれらの人にいちいち憤慨していたけれど、そういえば最近怒らなくなった。失礼なことを言われてもへらへら笑って受け流せるようになったし、異性からほめられても好きとかなんとか言われても、まったく真に受けなくなった。冒頭で書いた通り怒るのにはエネルギーが要るから、私は生きるのが楽になったなと感じている。余計なことにいちいち腹を立てないから余計なエネルギーを消費しない。気力も体力も有限だから、しょうもない相手に余計なエネルギーを消費しないでサクサク省エネでやっていくのはひとつの選択としてアリだと思っている。でも同時に、理不尽にはまっとうに憤ることのできる人間でありたいとも思うのだ。

 もちろん、理不尽に対してぜったいに声をあげるべきだなんて言うつもりはない。黙ってやり過ごすことがあなたの心や、体や、立場を守ることにつながるのなら、そうしてあなたがそのことを心底望むのなら、それも賢明な選択だと思う。声を上げることが苦しいのなら、黙っていたって構わない。
 でも、自分が声を上げないとしても、上がった声には耳を傾けられる人間でありたい(し、できるだけ多くの人にそうあってほしい)。声を上げることを責めたり、声を上げた側の落ち度ばかり探したりはしないでほしい。上がった声に、必ずしも共感しなくていい。同意しなくていい。ただ、否定から入らないでほしい。上がった声を抑圧することからはじめないでほしい。
 「それくらい、みんな我慢している」なんて、どうだっていい。確かに、みんな我慢しているのかもしれない。あなただって我慢してきたのかもしれない。でも、そのみんなが声を上げないのは、そのことに納得しているからとは限らない。声を上げたら、空気が読めないやつだと思われるかもしれない。面倒くさい奴だと思われるかもしれない。冗談の通じないやつだと思われるかもしれない。声を上げるのが面倒くさい。だからわざわざ声を上げないだけで。

 「女性(男性)はこんなに大変な思いをしている」という声が上がれば「男性(女性)だって大変なことはいっぱいある!」という声が返ってきて、「うちの職場はこれくらいブラックだ」と言えば「こっちはもっとブラックだ、それくらいなんてことないだろう」という声が返ってくる。
 馬鹿じゃない?と思うわけだ。
 こういった返事にこもっているメッセージは、おそらくこうだ。「〇〇だって大変なことはいっぱいある!(だからお前らの大変さだって大したことはない、特別なことじゃない、それくらい我慢しろ)」
 なんでそうやってお互いの首を絞めていくんだ、といつも思う。理不尽なことはどんどん変えていけばいい。みんなが我慢しているからお前も我慢しろなんて、無駄でしかない。正当な理由があるなら話は別だけれど、しょうもない理由や惰性で強いられる我慢ほど馬鹿らしいものって、なかなかない。理不尽なことに声を上げた人に対して「大したことじゃないから我慢しろ」だとか、「みんな我慢しているんだから我慢しろ」だとか言うのは、的外れもいいところだ。声を上げるのには、エネルギーが要る。リスクがある。そんな中で声を上げているわけだから、(少なくともその人にとっては)それは「それくらい」なんかじゃ全然ないし、「みんな我慢している」のは多くの場合先人たちがエネルギーを惜しみリスクを恐れてきた結果でしかないわけだ。みんな大変ならそのみんなそれぞれの大変さを解決していくべきであって、「だからみんなで我慢しましょう」なんてやったってだれも幸せにならないんだけど、それを美徳とする人は、案外多い。あなたが理不尽なことを我慢したいのならべつに私は止めないけれど、他人にまでそれを強要するのはちょっと変だ。


 これは完全な私見だけど、他人の声を抑圧しがちな、「だからみんなで我慢しましょう」をやりたがる人って、自分自身がそうやって我慢させられてきた人に多いように思う。Twitterを見ているととくに。「女性はこんなに大変な思いをしている!」という主張に「男性だって大変だ!(だからそれくらい我慢しろ)」という反応がついているのを、しょっちゅう見る。たぶん、想像だけれど、男の人って「男はこんなに大変だ!」を言いづらい世界で生きている(見当違いだったらごめんね)。男女平等とか言って女性の権利を主張することはもう何百年も行われてきているけれど、男性はそうじゃない。「男性ってこんなにしんどい!」と言えば「男のくせに女々しい」とか「男ならそれくらい耐えろ」とか、女性だけじゃなく同じ男性からもそんな反応が返ってくるような社会で生きているんじゃないかな、と感じることがある。

 でも、そういうのもういいじゃん、と私は言いたい。要らない我慢はお互いしなくていい。みんなで我慢するのはもうやめよう。そのために、まずは自分で自分に「大したことない、それくらい」を言い聞かせるのをやめませんか……とそれが言いたくて、こんな長々と文章を書きました。思ったより長くなりました。ここまでぜんぶ酔っ払いの戯言なんですけど、まぁなんだ、一緒に頑張ろうぜ!!!!!!!ってそれだけです。何か感想とか、思うこととかがあればぜひ聞かせてください。最後まで読んでくれて本当にありがとう。

シオタシオリ

#エッセイ #essay #ハラスメント #パワハラ #セクハラ #いじめ #ブラック

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