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限りなく薄いこの世のとんかつ

ここ数日間、天候が不安定だ。今日は気温が高かったけれど天気は曇ったり晴れたり。そのせいか体調が良くない。

母の目の手術は両目ともうまくいったらしい。まだ完全に落ち着いてはいないものの、普通の生活に戻りつつある。

今日は大阪フィルハーモニー交響楽団の公演に出掛けた。
チャイコフスキーの『白鳥の湖』セレクションが特に素晴らしく、
音楽に全身さらわれてゆくような感覚。
バレエの舞台を観に行った時にはこういう感じにはならなかった。
(ダンサーに目を奪われているせいかもしれない)
今日は音に集中できた。

集中と言えば数年ぶりに図書館通いを再開したので読書。
いつも何かしら通勤電車では読んでいるけれど、「返却日」が決まっていると一生懸命読んでしまう反面、なんだか合わないな。と思えば途中でやめることも気軽にできる。本との相性をあれこれ考えてみるのも面白い時間。

小池昌代編の詩のアンソロジーを読んでいると最後に編者の「言葉ーあとがきにかえて」という詩が掲載されていた。その本で紹介されているどの作品よりもこの詩が一番印象的で、一体ここに辿り着くまでの時間は何だったんだろう、とあっけにとられてしまう。この詩の中の<限りなく薄いこの世のとんかつを食べた>という一行がどういうわけだか頭から離れない。
とんかつ。高カロリーのこの料理を食べようとする時、人はきっとお腹が空いている。元気を出したい気分かもしれない。それが<限りなく薄い>とは。現実にはあり得ない。そんなものにとんかつと名付けてよいはずはなく、
このアンソロジーのタイトルは『おめでとう』なのにこの詩の中で登場する呼びかけは「おめとう」。<わたしたちの感受性は複雑によじれ>と続く。

チャイコフスキーは全身をさらってくれるが小池昌代の詩はわたしの足を地面に引き戻す。食べたことがない<限りなく薄い>とんかつを、がりっと齧ったことがあるような錯覚。聞いたことがない「おめがとう」という言葉が近寄ってくるどきどき。生きていれば時々引き受けなければならない物事。

「言葉ーあとがきにかえて」のページだけコピーして、本を図書館へ返却した。<限りなく薄いこの世のとんかつ>をもう少し味わう。








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