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女性が好きな色は「ピンク」の裏

どうも、スワンです( 'ω')

株式会社メルペイにてデザイナーをしつつ、勉強会でグラレコを描いたり、社外でもデザインや組織づくりのお手伝いをしています。最近はTwitter中心に生息していて、日々の考えや告知はここでまとめているのでよかったらこちらもどうぞ👇


女をこじらせにこじらせ、最後にもうひと超えこじらせて、我ながら色んなものを踏み外し続けてきた人生だなあと自負しているのですが。

半分愚痴のような、でも90年代生まれの女性ならわかってくれる人がいるんじゃないかと思って、誰のためになるかは分からないけど。女性と色についてのメモ書きを残しておこうと思います。

目次:

1. 女性社会のヒエラルキー構造と色
2.ヒエラルキー頂点にのみ許される色、ピンク。
3. 黄色や緑は安全カラー
4. ミニーとマリーちゃんとハローキティは格が高い
5. 誰でも安全なプーさん
6. ディズニーのキーホルダーでグループの序列がわかる
7.  大人になってもヒエラルキーを引きずる女性たち
8. 思ったより、私たちの社会は複雑だから


女性社会のヒエラルキー構造と色

デザイナーという職業柄、ことあるごとに今回はやれ女性向けだ、ターゲットはミーハーな女子だと言われ「だから今回はピンク系でお願い!」と言われることは少なくない。

でもそんなとき、毎度毎度のようにそっと心で「わたしは、ピンクを選べなかった側の女子だったなあ」という懐かしいような悲しいような、遠い感覚を掘り起こすことがある。

昔から「女性はピンクが好き」という常識のようなものがある。化粧品は可愛らしいピンクで埋め尽くされているし、決まって洋服屋の店頭にはフリルや色とりどりの新作が立ち並ぶ。その先頭に置かれるのは、やはりピンクや赤といった女性を象徴するかのような色だったりする。

何も考えず、世間的にパッと見れば「やっぱり女子というのは赤やピンクが好きだろう」というイメージに行き着くのは当然のことのように思う。

でも思春期まっさかりな女子の人間関係の中、当時のわたしは思うように色を選べなかったことをふと思い出す。



そもそもの話だが、思春期の女子は集団で常に大まかに3階層に分けられる(ちなみにこれは共学だろうと女子校だろうと関係なく、基本的に集団が形成されるときに自然と生まれる格差意識である)

リーダー層を集めた上位グループ、中立の立場を守り派手な行動は慎む中位グループ、最後に大人しいのに何かといちゃもんをつけられてはいじめの対象になりやすい下位グループ。

女性なら学生時代を思い出せば(3つではなかったかもしれないが)そこにはグラーデーションの階級が存在していたことを理解してもらえるのではないかと思う。

そんな徹底的なヒエラルキー構造の中、誰が言ったわけではないのだけど。実は私たちにはそれぞれに「持っていい色」が割り当てられていた。


ヒエラルキー頂点にのみ許される色、ピンク。

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今思うと不思議な話なのだけど、思春期真っ只中の女子の関係値において「色」は圧倒的にヒエラルキーを示す象徴だった。

学校という閉鎖空間で築かれる王国の貴族階級の女性たちにのみ許される色、それがピンクだった。さらにその中でも自己主張が強く、おしゃれな子にのみ与えられる特権の色が赤だったように私は思う。

とてもじゃないが、揉め事に巻き込まれないようそつなく学校生活をこなす中間グループや、いつ派手にいじめられるか分からない中でビクビクと暮す下位グループには逆立ちしても選べない色。それが「ピンク」と「赤」だった。


黄色や緑は安全カラー

一方で中間層以下が安心してる使えるカラーは決まっている、黄色や緑だ。
加えて青やセピア系なども問題ない。モノトーンも問題ないが、揃えすぎると当時はパンク系と思われたりサブカルオタクっぽい扱いを受けることもしばしばあった(わたしは隠れオタクだったけど)

当時のわたしからすると、ピンクは持っているだけで「ぶりっこ」のレッテルを貼られる、もしくは「似合ってない」やら「調子こいてる」と罵られいじめの引き金になるような呪いのアイテムだった。

ちなみにわたしは中学生の間、1つも赤やピンクの小物を持ったことがない。持ちたいと思ったこともなかった気がするが、それが先天性なのか後天性なのかは今となっては分からない。



ミニーとマリーちゃんとハローキティは格が高い

色に比例して、面白いことに持って良いキャラクターにも何となく決まりがあった。ミニーマウス、マリーちゃん、ハローキティは上位層しか持てないキャラクターだったのを今でもよく覚えている。

これはカバンにつけるキーホルダーのような派手なものだけでなく、ノート、下敷き、筆箱、時にはメモ帳にまでみんなのパトロールの目は光っていた。誰がが引き出しを開ける度に、身分に合わないキャラクターグッツを持とうものなら周りからヒソヒソ話をされるのが日常だった。

キャラクターにはファンという特性があるので、もちろん人によってはヒエラルキーを気にせず持つツワモノもいたが「〇〇のくせにマリー使うとかキモすぎ!無視しよ!」とこれまたいじめられるキッカケになるほどの破壊力を持つのがキャラクターの怖いところだ。

ずっとずっと、教室で吸う空気は薄かった。


誰でも安全なプーさん

ちなみにキャラクターにも同じように安全カラーが適応されている。
プーさん、チップとデール、ドナルドダック、ボケモン、リラックマ、その他ゆるめのキャラクターは低ヒエラルキーでも所持が許可されていた感覚がある。

例外としてリトルマーメイドは「委員長系」という謎の括りがあって、赤が含まれるものの尾ひれが緑のせいか中間層には持つことを許されていた。

微妙なところでいうと、青系でも眠れる森の美女などはディズニーのプリンセスシリーズは姫というキャラクター性のせいなのか、上層部への特権の一部となっていた。ジャスミンはギリギリセーフのようなアウトのようなさじ加減の難しいキャラだったようにも思う(強烈なファンの上位層がいたら完全にアウト)

かくして思春期の女子は、必死に「自分の好み」「適切なヒエラルキー」の落とし所を見つけ、自分のキャラクター性を作り出し手持ちのものを揃えているわけである。


ディズニーのキーホルダーでグループの序列がわかる

もうお分かりだと思うが、これを生かした女子グループの簡単なヒエラルキーの見分け方がある。ディズニーランドのお土産ストラップの配分だ。

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(引用元)https://dlove.jp/mezzomiki/tokyo-disney-land-sea-strap-2017aw/

3個から最大8個ぐらいセットで売られているパターン違いのキーホルダー。これの配分は、そのグループのヒエラルキーをまんま表していることが多い。

赤、もしくはピンクを所持しているのは圧倒的にそのグループで権力を握っている女子だ。その相談役、もしくは間に立つポジションがオレンジや黄色を持ち、聞き役に徹するフォロー役、もしくはグループ内でも地味だと思われている子は緑や青を持ちやすい気がする。

もう自分で書いていて、本当よくこんなことやってたなと情けなくなる。が、当時はこの自分の「ポジションどり」が小さな社会の命綱であり、そつなく世渡りしていくための忖度に他ならなかった。


大人になってもヒエラルキーを引きずる女性たち

わたしも学生という身分を終えて、もうある程度の時間が経った。そういう謎の縛りからは抜け出して、自由気ままに暮らしているはずだが、中学高校と多少の尾ひれを引く大学生活を経た10年というヒエラルキーの感覚は早々に抜け出せるものではないように思う。

未だに周りで堂々とピンクや赤を身につけた女性がいると「あ、そこのポジションは埋まってるのね」と一気に安全圏へ逃げ出そうとする習性が、どうしても体に染みついているのを実感する。

「ピンク」や「赤」に対する警戒心はその域を超え、拒絶感へと変わる。それは「私には派手すぎる」「ふさわしくない」という言葉にすり替わって、常に自分をどこのポジションに納めようかとソワソワ落ち着かない気持ちになる。

ピンクや赤を堂々と着れる女性が、大人になってもどれほど少ないことか。

雑誌に載る服はいつも色とりどりで、真っ赤なコートもショッキングピンクなヒールも、当然のようにあちこち紙面を飾る。でも店頭で真っ先に売り切れるコートはやっぱり、黒やベージュやグレーなのだ。

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思ったより、私たちは複雑だから。

呼吸するような「当たり前」は、どこまでも毒だ。

「わからない」は怖いから、人はどうしても自分が理解できないことを大きく括って「理解したつもり」になりたくなってしまう。そしてそれは怖いことに、自分自身にも当てはまる。

自分の知らないところで、自分自身をがんじがらめにしている常識は腐る程ある。目に見えて体系化されていなくても、周囲を取りまく「透明なルール」は視野を狭くし、人は自然と自分で敷き始めたレールに沿った行動しかしなくなる。

「なんでこの商品の、この色を選んだのか」

「なんで今の仕事を選んだのか」

「なんで、あの人が嫌いなのか」

自分の行動や感情には、いろんなカラクリと背景が必ずある。それは知っていれば利用できるけど、訳も分からなければ飲まれる一方だ。訳がわからなうちに八方塞がりになって、勿体無い人生になるなんて、やっぱりごめんだと思う。

そんな中、自分が「赤いセーター」に袖を通して、「赤い口紅」をポツポツと使えるようになってきたのは「もういいや、好きにしよ。」といった、諦めのような再起のような。そんな、中学のときの自分が本当は言い出したかったことを、今になって反抗期のように消化しているようにも思う。

今はそれが、とてつもなく嬉しい。


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自分という複雑な存在を、自分で上手く理解して扱ってあげるためには少しコツがいる。

自己流ながらその筋トレのようなものを始めた2018年は、自分の取り扱いがとてつもなく楽になった。それに純粋に学びになることや、体系化する癖もついたし、何よりあらゆる物事を「客観視」する習慣が自然と身についた。

第1回の「折れないクリエイターの歩き方」でもセルフノートについても書きましたが、今年はそういう頭の中をどんどん体系化して、誰かに残していければいいなあと思ってます。

ではまた( 'ω')スワーン

読んでいただいただけで十分なのですが、いただいたサポートでまた誰かのnoteをサポートしようと思います。 言葉にする楽しさ、気持ちよさがもっと広まりますように🙃