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猿若祭 十八世中村勘三郎十三回忌追善 昼

『野崎村』『釣女』『籠釣瓶』<白梅の芝居見物記>

 十八世が逝去し、すでに十年以上の歳月が流れているとは‥。まだ実感がわきません。役者としてはこれからという時にこの世を去らなければならなかった無念を思えば、今もって涙が出てきます。
 舞台映像を見て懐かしく思い返すなどとは、まだ到底思えないのが正直なところです。

 ただ、今回の猿若祭を拝見していて、新しい中村屋一門の歴史が力強く踏み出されていることを実感し、新しい時代の幕開けに立ち会っているかのごとき充足感を得ることができました。
 十八世も安堵している‥、というより、まだまだだけどよくやっている、そこにご自分がいないのがくやしい‥と、明るくおっしゃっている姿が想像できるようでうれしく思います。

 新版歌祭文 野崎村

 新しい時代の『野崎村』に出逢ったように感じられました。
 私の中のお光と言えば、やはり七世尾上梅幸丈です。素朴で純真な田舎娘の心根が非常に心に残る逸品でした。

 中村鶴松丈のお光はどこか都会的で、娘道成寺の詞章にあるような「都育ちのハスハ」なところがあり、そのお光像に少し戸惑を感じてしまったのですが‥。
 鶴松丈とお染役の中村児太郎丈の好演によってこの作品本来の意図に気付かされることになり、こうしたお光もありなのかと考えを改めることとなりました。むしろ現在の歌舞伎観客の感覚からすれば、鶴松丈のお光の方が、共感しやすい部分が大きいかもしれません。

 六代目菊五郎丈から梅幸丈に続く『野崎村』は、役者の圧倒的な存在感によって「お光の芝居」となってきたかと思われます。
 ただ今回は、周りの存在感も浮上したため、この作品の作者本来の意図に気付かされることになったのだと思います。

 『新版歌祭文』は近松半二作の世話物です。
 半二の作品には、一人の男性をめぐり二人の女性を対比的に登場させる名作が多くあります。『本朝廿四孝』の八重垣姫と濡衣、『妹背山婦女庭訓』の橘姫とお三輪。
 ある女子大生の会で、『妹背山』の作品への感想として、恵まれた立場の橘姫にくらべお三輪の悲恋に心を寄せる、娘さんらしい感想を聞いたことが思い出されます。今回もお光に心を寄せるのであれば、この作品の主人公であるはずのお染は恋敵であり、女性の見物からの共感は得がたい面が出てくるのもうなずけます。

 ただ、近松半二の描く二人の女性は、ある歴史上の一人の女性をモデルにしています。同じ人物を描いているのです。状況や立場が変われば人の行動も変わらざるを得ません。対照的に描かれる二人に変わらないのは恋しい殿御を思う一途な思いです。そしてどの主人公も、歴史的事実を反映させているため恋が成就し「目出度し目出度し」で終わることもありません。

 今回、鶴松丈のお光は清新で心理表現も巧みにこなしており、女性客の共感を呼んでいました。
 お光の健気な心情をよく表現している上に、そこに観客の思いが集中できる幕切れの演出がやはり絶妙であると改めて思います。
 また両花道を使った引込みではなく、児太郎丈の熱演によって本舞台でのお染の思いにも自然と目が向きました。お染めの久松への一途な思いと別れゆく悲しみは、この作品の下の巻を暗示しているようであり、非常に心に残りました。

 芝居の面で、児太郎丈の竹本の糸にのる芝居は古典演劇としての安定感があり安心して面白く見ることができました。
 一方鶴松丈に関しては、今の若い世代の役者さん達に顕著の特徴である心理表現を器用にこなしているところは、昭和の役者さんたちの芝居とは違う、ある意味今の時代を象徴している芝居のように思えます。
 ただ、六代目菊五郎系統の芝居は、いわゆる糸に乗った芝居作りとは違い手順を追うのに精一杯な今要求することは酷にも感じますが、一見自然な動きに見えながら計算し尽くされた様式性の上に、どこまで役の性根を乗せていけるのか、今後の難しい課題だとは思います。

 釣女

 十八世に目をかけられながらも、なかなか大芝居の舞台を任されるまでにはいたっていなかった獅童丈が、立派な一幕をつとめあげているまでになってきたのは喜ばしいことです。
 一方、芝翫丈は場を盛り上げようと奮闘なさっているのはわかるのですが。立役でいかつい身体であっても例えば播磨屋はきちんとした女形の基礎の上に身替座禅の奥方玉の井を演じていらっしゃいました。俄のような芝居をしているようでは、やはり古典芸能を支える立場としては、かなり心もとないように思えてしまうのが正直な感想です。

 籠釣瓶花街酔醒

 新しい時代の『籠釣瓶』を見せていただいと私には感じられました。
 中村勘九郎丈は口跡といい、身のこなしや仕草といい十八世そのままのようでいて、お父様の面影を見るだけの佐野次郎左衛門にはなっていませんでした。そしてその次郎左衛門にはこの人物特有の屈折した業や執着というものがほとんど感じられないにもかかわらず、現代的感覚で十分に作品として成立させているところが新しく感じられた要因かもしれません。

 そうした芝居作りは、片岡仁左衛門丈の役作りの手法と言えるかもしれません。仁左衛門丈は繁山栄之丞を次郎左衛門に対する敵役としての位置づけだけに終わらせていませんでした。小悪党の釣鐘権八の口車にのせられてしまったお人好しな人物であり、惚れた女性の真実を確かめないではいられない、仁左衛門丈が演じるからこそですが‥、そんな憎めない仁左衛門丈ならではの魅力に溢れた栄之丞に仕上げていらっしゃいました。

 『籠釣瓶』の初演は明治21年、全8幕20場で今日演じられるのは5.6.8幕の一部です。初演時は美男子である初代市川左團次が醜男である次郎左衛門をつとめるのが一つの趣向で、朗々たる台詞と勇壮な立回りが好評をはくしたといいます。その後、初代中村吉右衛門が「縁切り」の名調子によって当たり役とし、その系統が今日まで続いてきました。近年では二代目吉右衛門がその屈折した感情、二代目松本白鸚丈はその狂気によって印象深い舞台を見せて下さっていました。

 勘九郎丈の次郎左衛門は、因果応報の中でもがく人物でも屈折した執着性をもつ人物でもなく、狂気を内に秘めた人間として描かれてもいないように思われました。
 純朴な田舎者が口八丁の都会の盛り場で、運悪く間夫のいる遊女に一目惚れをしてのめり込んでしまった。満座の中で恥をかかされた恨みというより、心の行き場を失って妖刀の魔力によって殺人に及んでしまう、といった「芝居」として無理のない展開で見せてくださっていたように思います。

 細かく言えば疑問符もつくところもあったけれど、大まかに言えば、現代においてもどこにでもありそうな情事のもつれが原因の事件と言ってもいいような展開に感じました。

 実は明治に入ってからも、歌舞伎は巷間で起こる事件を単に取りあげることで芝居が作られているわけではなく、歌舞伎が近世を通じて伝承してきた考察対象を元に芝居作りがされていると私は考えています。
 ただ、そんなことを深く考えずに、美しい女性の花魁道中と遊女を見初めてしまった純朴な田舎者の悲恋、情事のもつれから起こった殺人。現代社会のどこにでもありそうあり、ありそうだという説得性があればそれで十分なのかもしれない。そんなことをこの舞台は考えさせてくれました。

 それが古典として今後どう伝承されていくのか、この作品が若い俳優達の中でどう成長していくのか、今しばらく見守りたい気持ちになりました。

 中村七之助丈は見染めにおける「咲(ワライ)」には物足りなさを感じましたが、「嫌なものは嫌だ」という縁切りの強さは見応え十分でした。
 仁左衛門丈を筆頭に、歌六丈や粋なところが魅力的で、安定感のある時蔵丈ともども存在感がやはり大きく舞台を支えていらっしゃいました。松緑丈や吉之丞丈もいい味を出していたのが、印象に残る舞台でした。
                      2024.2.9

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