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山岡鉄次物語 父母編3-4

《 母の物語4》製糸工女

☆明治大正時代の製糸工女たちの実態について。

幕末に始まった養蚕・製糸業は昭和の初期に最盛期となり、海外に良質の生糸を大量に輸出した。
製糸工女は酷い労働環境のなか日本の殖産興業の礎になったと言える。

製糸業では労働者のほとんどを工女が占めていた。街を歩けば工女に当たると言われていた。

日本各地の農村から働きに出て来た工女が多く、優秀な工女は百円工女と言われ、当時の工女たちの憧れの的だった。
百円で家が建つ時代に、貧しい農村において工女に出した娘の帰郷は、家族にとっても生活の支えになっていた。

なかには工女を大事に扱った製糸業者もいた。
工女なくては製糸ができぬと、過酷な労働で知られた工女を大切に扱う製糸家も増え、劇場や映画館、菓子店や着物屋のほか、製糸業者が共同で出資した病院や学校の建設も広がった。
家ではヒエやアワしか食べられなかった工女たちも、工場では白米のおかわりが自由だった。


明治から大正初期の製糸工女の生活はどうだったのだろうか。

雇用契約は雇い主と親の間でなされ、親には前貸金が渡されていた。

朝の4時過ぎに起床して、身支度を整えるだけで仕事を始める。
途中の食事時間は朝昼晩それぞれ15分、3~9月は夜の9時まで16時間を超える労働、それ以外の時期は夕方6時までの13時間を超える労働だった。

太陽の当たる時間は、ほとんど工場内の作業であった為なのか、年頃の工女の多くは色白で綺麗だったとの逸話がある。
悲しい事は、妊娠してしまい実家に帰されてしまう工女もいたようだ。

少ない原料で良質な糸を多量にとらせる為に工女が引いた糸に点数をつけて賃金を決めた。
糸の太さを表すデニール検査や光沢の検査を行い、基準に達しなければ罰金が賃金から差し引かれた。

良い点数が取れる工女は大事に扱われ、一等工女になると賃金は高くなった。年間の給金が百円を超えると百円工女と呼ばれた。

寄宿舎は1部屋に50人近く詰め込まれていた事があった。
こうした生活は工女の健康を蝕んで、結核になる者が多く出て、その感染も早かった。
また「工女の早めし」と云い、食事時間が短く、きちんと咀嚼しなかった為に胃腸病になる者も多かった。

こうした病で死んでいった製糸工女がたくさんいたのだ。

山本茂実のノンフィクション映画「あゝ野麦峠」にはモデルがいた。

明治21年岐阜県の貧しい農村部に生まれた政井みねだ。

みねは家計を助けるために信州の岡谷へ出稼ぎに出た。
明治政府による富国強兵のもと、日本の近代化を支えたのは水の豊富な諏訪湖地域の製糸業であり、みねを始め多くの女性が野麦峠を越えて出稼ぎに出た。

みねは14歳になると100人以上の工女とともに諏訪湖畔岡谷に向かった。
野麦峠の冬は過酷な上に交通の難所が続き、雪は氷の刃と化し、少女たちの足を容赦なく切り裂いた。野麦の雪が赤く染まったと言われた。
また、足を踏み外して谷に滑落する者、峠のお助け茶屋に入りきらずに、外で夜を明かす者もいたという。

勤務先の製糸工場である山一林組は、蒸し暑さや悪臭などが漂う劣悪な環境で、15時間にも及ぶ長時間労働に加え、工女の逃亡を防ぐため寄宿舎に鉄製の格子が張られ、監獄に近い状態であった。

みねを含め多くの工女たちは自分の賃金で実家を助けるため、また工場が休みとなる正月に両親と再会できる事を信じ、歯を食いしばって耐えた。

時は過ぎ、みねは工女の模範となって年収が百円(現在の200~300万円程)を超え百円工女となる。
しかし直後に重度の腹膜炎を患ってしまう。
知らせを受け、みねを引き取りに来た兄の辰次郎は松本で入院する事を勧めたが、自らの死を既に悟ったのであろうか、みねは故郷の飛騨へ帰りたいと兄の勧めを拒否した。
やむなく辰次郎はみねを背中に背負い、飛騨へ向かう事となった。

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帰路の途中、多くの工女が息を引き取った野麦峠の茶屋に辿り着くと、みねは喜びながら「あぁ、飛騨が見える。」と言い残し、息を引き取った。
わずか21歳の死であった。



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