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山岡鉄次物語 父母編3-6

《 母の物語6》愛染かつら


☆珠恵は明るく健気に働いていた。

単調な作業の毎日ではあったが、珠恵は楽しみを見つけていた。

工場では機械の騒音の中でも、流行歌などの音楽がいつも流されていた。
娯楽の少ない時代、スピーカーから流れるラジオや音楽はとても楽しみだったに違いない。

珠恵は糸取りをしながら、流れる音楽に合わせて唄う事がある。
「花も嵐も~踏み越えて~、行くがオンナの生きる道~。」
珠恵は思っていた。「父母がなくても生きて来た。楽しみも哀しみも何とか踏み越えて来た。これからも大変なことがあるかもしれないけれど、頑張って乗り越えて行くしかない。私の人生なんだから。」
珠恵は愛染かつらの高石かつ枝になった気分になり、そして自分の境遇に思い至っていたのだ。


珠恵は、特に当時の映画「愛染かつら」の劇中に流れる「旅の夜風」「悲しき子守唄」などの歌と弁士の語りを聞くのが楽しみとなっていた。

田中絹代、上原謙などの人気俳優が出演する人気映画だ。

「愛染かつら」は川口松太郎の長編小説を昭和13年に松竹が映画化したものである。

戦前の大ヒット映画でメロドラマの名作と言える。すれ違い身分違いの恋愛を、遠回りしながらも成就させる物語だ。

長野県上田市の別所温泉北向観音の鐘楼の横に、巨木ではないがモデルになった桂の木がある。「愛染かつら」のヒロインの高石かつ枝が津村浩三と菩提寺のカツラの木の下で永遠の愛を誓う。小説以来、縁結びの木として有名になった。

当時29歳の女優田中絹代が扮する高石かつ枝の毅然とした演技は光っていた。

当時は独身者でなければ看護婦になれなかった。子持ちを隠しながらも自立して生きる姿、虐げられながらも健気な生き方が共感されたのだろう。


私、山岡鉄次の手元には、母珠恵が51歳の時に愛染かつらの活弁を録音したカセットテープが残っている。保存の為に数枚のCDを作った。
母の法事ではCDを姉弟たちに配り、法事の会場で流してもらい、皆で懐かしい母の声を聴いて過ごした。

愛染かつらの活弁は、私達姉弟が若い頃に母珠恵の昔話とともに聞いた事があった。

製糸工場の糸取り生活は大変だったと思う。そんな中で見つけた大事な楽しみだったに違いない。

カセットテープに録音された明るい珠恵の声は、前編の終了を告げて静かになった。


当時の映画は弁士の活躍した無声映画からトーキーに変わっていたが、工場では活弁士泉詩郎のレコード、流行歌・映画説明集が流れていたのだと思われる。

珠恵は毎日聴いているうちに、「愛染かつら」の活弁を諳んじるようになっていた。

珠恵は弁士の言葉を諳じた。

ひじなる愛の花園に
よし吹く風の強くとも
辿る浮き世の道も瀬に
苦しき落ち葉積もるとも
いつかは情けの雨が降る


普段、寄宿舎暮らしの工女たちは、お正月には実家に帰って行く。

親の無い珠恵は郷里に帰ってもしょうがないと、いつも寄宿舎で正月を過ごしていた。
誰も居なくなった訳ではなく、残っていた工女仲間や若い検番(工場の男性監督)たちと卓球をして楽しんでいた。

諏訪湖畔を去る頃の珠恵は卓球の腕をだいぶ上げていた。

珠恵は周囲の人たちに、いつも明るく優しく接していた。
寂しいはずのお正月も、朗らかな珠恵が周りを明るくしていたのだ。

珠恵は幼い時に両親を亡くし、親戚の世話になっていたが、周りの人と上手くやっていく為の術を、知らず知らずのうちに身に付けて来たのかもしれない。


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