軍隊系バレー部に入っていたときの話

中学校の頃に期せずして軍隊系バレー部に入ってしまったことがまぁまぁ人生に影響を及ぼしてしまったので、その話。

私は小学校卒業当時まぁまぁぽっちゃりしていて、それが嫌で運動部に入って痩せたいと思っていた。
仲良しの友達からはテニス部に入ろうと誘われたが、デブなのでスコートを着るのが嫌だし、日光にも弱かったので室内部活のバレーがいいかなというくらいの気持ちだった。
(その後一時期ブルマを履いてプレーする羽目になり、スコートの方がよっぽどよかったのだが…)
別に強豪として知られていたわけではなく、先輩方は地区大会1回戦負けの超弱小チーム。
クラスの他の仲の良い友達とも一緒に30人くらいが入部した。多すぎてボール拾いしかすることがなかった。
そこへ新任の先生が担当することになり、全員を集めて「これまでの部活とは違う。俺は厳しくするぞ。辞めるなら今のうちだ」的なことを言い出した。
あまり想像がつかず、はぁそうなんですか、という感じで特に誰も取り合わなかった。

先生は有言実行した。あまり覚えていないが、単純に練習時間がものすごく多くなった。土日も練習漬けになった。
曰く、中学からの初心者じゃ小学校バレーからやってきた学校には到底敵わない。それを凌駕する練習量にするしかないと。
言うこともどんどん厳しくなって叱責される子も増え、1年生の冬までにはどんどん人が辞めていった。先生的には人数を減らしたかったようで、望んでいた方向のようだ。
仲良い子も喘息その他の理由でみんな辞めてしまったが、私は喘息でもないし、辞めるのもパワーがいるし、帰宅部になっても別にやることないしなぁ?くらいの気持ちで何となく辞めなかった。
人数だけは多く入っていたので、1年生の子からもレギュラーに選ばれる子が何人か出ていた。特に身長170cm越えで親もバレー経験者の子とか。運動神経抜群の子とか。
1年生のうちはまだまだデブっていたし練習試合でもひたすら応援団。試合に出たいような、でも出ると怒られるしな~くらいの感覚。

2年になって先輩が引退した頃から、更に苛烈な練習になるようになっていった。
朝練からの夕方練。土日は総合運動場の体育館で午前午後と練習。チームを1軍と2軍に分けて実戦形式の練習も多くするようになった。当然のように2軍である。
ただ、この頃には運動しすぎたのと成長期がやってきたことのダブル効果で、痩せて背が伸びたので縮尺がおかしいことになった。近所の人からは拒食症を疑うレベルで細長くなった。
実はデブっていただけで、元の運動神経はそんなに悪くない。小学校低学年のマラソン大会では連続1位取っていたし。身体が軽くて跳べるようになったので、スパイクが決まりだす。2軍のエース的なことを言われるようになっていった。

どんどん苛酷になる練習。
テスト期間中は部活禁止だが、1日ボールに触らないと3日分落ちる、どういう意味か分かるよなぁ?と自主練を促される。みんな真面目なのでちゃんと公園に集まったりして自主練する。
というか、テスト期間明けに身体がなまっていたら激烈に怒られるというのもある。
サーブカットの練習で、自転車のヘルメットをバケツのようにしてキャッチする練習をひたすら。本当はやりたくなかったが、その頃には何かとNoと言える雰囲気がなかった。

先生は、学校の成績はいいのにぽやっとしてとても頭がいいように見えない私の扱いを結構迷っていたかもしれない(実際バレーの面でクレバーなプレーは全くできなかった)。
「テストの点はいいくせに」みたいな枕詞をよく使うようになっていた。
それが結構嫌だった。ワンマンという、誰もが恐れるコート全部どころか体育館半面くらいの範囲でレシーブさせられる、罰ゲーム的な性格の練習があるのだが、私の番のときはいつもその枕詞を使われた。
「頭はいいくせにこんなボールも取れないんだなぁ!」みたいな。関係ないじゃんね。
その枕詞はじわじわ周りにも悪影響を与えていたようにも思う。成績はいいのにバレーでは活かせないんだ的な。ちょっと浮き始めていたかもしれない。チームはだんだん宗教がかっていき、先生の発言そのままに「関東!全国!そのための練習!」というようになってきていたが、同じ感覚で向けているのか分からなくなってきた。そんな話をしたくとも、仲良い子もみんな退部してしまって、近所だから一緒に帰っているだけの意地悪な2軍女子の子ぐらいしか行き帰りを共にしなくなってしまった。

私たちの代ではずっとレギュラーが固定で、ユニフォームも競争心をあおるために12枚のうち先生が実力を認める順に名前を呼ばれて配られる。12人以上メンバーがいたので落ちた子は毎回泣き、誰かがそれを慰める。最初はそれにも一喜一憂していたが、なんだかだんだん茶番が過ぎているような気持ちになってきた。
私はずっと9-10番で、ユニフォームはもらえるけど2軍的な立ち位置だったのが、ある時先生が攻撃力を強化しないとだめだと思うようになり、私がレギュラーに抜擢された。ずっと固定メンツだったのでチームにはそれなりに衝撃が走る。背番号は7番、リベロ入れてレギュラーで一番下。当然落ちた子がいる。落ちた子はめちゃくちゃ泣く。実力が近い同士でパスも組まされるので、一緒にパスをしているうちに泣き出し、泣き出した子をレギュラーが慰める。益々いたたまれない。

更には一貫して性格が悪かった近所の2軍女子の子が発狂した。その子は強気で頑張り屋で、成績も上位目指して頑張っていて、ポジションは違うがバレーも一生懸命。それなのに、ポジションが違うだけで別にスパイク以外は上手くもないのにレギュラーになり、しかもぽやっとした陰キャオタクっぽい奴に学校の成績でも絶対に勝てないということが許せなかったらしい。元々誰かしらの噂話や陰口を言うタイプだったが、それが完全に私に向いた。つらかったのが行き帰りは一緒に行き続けないといけないこと。その時は最低限の会話をしつつ、着いたらひたすら無視。周りのユニフォームもらえない子たちも巻き込んで無視。陰口もわざと聞こえるように言ってくる。お弁当を食べていた輪からも外されるし、食べ終わった後のパスからもはぶかれる。パスは奇数人数だと嫌がられてしまうので、壁打ちするしかない。そんな状態がしばらく続いたが、もちろん先生はそんな女子事情は分かってはおらず、ただただあらゆる方法で罵ってくる。レギュラーにも2軍にも居場所がない。そしてそれを誰にも相談できない。つらかった…。

そんな状態は、あるときに少し改善した。その強気女子があらゆる子の陰口を言うタイプというのもあって、反旗が勝手に翻ったらしい。合宿中の夜に、取り巻きの子たちから本当はあなたのこと嫌っていなかったのに逆らえなかったと謝られた。はぁ…と曖昧に濁したが、それこそ馬鹿じゃないの?と全く許せなかったし、そうやって自分のしたことを懺悔して許されようとする性根もめちゃくちゃダサいなと思った。強気女子はそれからしばらく取り巻き達に冷たくされていて、それもそれで馬鹿らしかった。

しかし最弱レギュラーとしての日々は続く。朝練のほか、冬場は学校の体育館の使用時間も限られていたので近くの小学校を借りて毎日19時まで。試合にもそんなに出ていなかったので試合勘もない。先生は実戦こそ全てということで土日はマイクロバスを借りて毎週練習試合に出るようになったり、1軍だけ先生の借りた?ハイエースの後ろに積まれて東京や神奈川の方まで遠征試合に駆り出されるようになった。ちなみに強豪の胸を借りるということで、全部遠征だった。週末の試合で絶対に怒られ確定なので、金曜夜が一番嫌いで、月曜が一番好きだった。

ちなみに2年の冬にはうっかり駅伝の学校代表メンバーにも選ばれてしまい、その練習との並行も苛酷だった。朝外周10周からのサーブ練。夕方外周10周からの通常練。さぼりたかったのにバレー部は全てちゃんとやるべき、さぼってはいけないという至上命題のもと駅伝練習に出たがゆえに、本当はそれよりもタイムが早かったバスケ部の子たちがさぼりまくったからとメンバーになってしまった。毎日のように部活行きたくないと母に言っていて、母は毎日ハイハイと聞き流していたが、この頃だけはさすがに可哀想に思ったらしくて休む?と心配してくれた。でも朝練を休んでしまった時に学校でみんなと会う方が地獄だったので、休まずに行っていた。そして地区大会も勝ち上がってしまい県大会で真冬の湖の周りを走る羽目になった…。

そうしているうちにだんだん3年の夏の総体に向けて残された時間は減っていき、先生も明らかに焦ってきた。
当時の練習試合をしていた強豪校の先生はみんな当然のように(!)平手打ちしていた。酷い例は髪の毛をつかんでネットに押し付けたりしている。異常な世界。
先生は最初暴力に抵抗があったが、これらを見てしまったからか、強くなるためには必要と決心してしまったらしい。

ある日の練習試合、俺はこれからお前らを叩くとわざわざ宣言された。その後すぐに私が最初に叩かれた。そこから毎回叩かれの日々が始まってしまった。
実際叩かれたのは私とエースの子が圧倒的に多く、他の子はそこまででもなかったような気がする。
叩かれることで強くなる子もいるのかもしれないが、私の精神状態には大きくマイナスになってしまった。
人前で泣くのが嫌いなのに、叩かれるとショックで涙がこぼれるようになった。泣きたくないのに泣いてしまう、それをみんなに見られている、自分でコントロールできない状態になってしまっているのが更に嫌だった。
エース対角だったのでリベロと後衛が代わるのだが、代わると先生にアドバイスをもらいにいかないといけない。それでまた怒られる。悪循環。
一度暴力のタガが外れるとエスカレートするらしく、ボールも頻繁にぶつけられるようになり、お菓子缶で頭を小突かれたりするようにもなった。毎回痛かった。

そんなある日の練習で個人的に決定的なことが起こる。先生が声を出さない、ボールも拾えないお前なんかいらない、このカラーコーンの方がまだましだと言ってコートから無理やり出されてカラーコーンを置かれた。バレー部劇場的には「いいえ!」とか「違います!」とか反抗した上で「やります!」と言わないといけないのだが、その日はその茶番をすることが何だか嫌になってしまい、無言でちょっと乱暴にカラーコーンを出した。先生がまたカラーコーンを入れてくる。無言で出す。繰り返し。
それにキレた先生が怒涛の平手打ち。衝撃でよろけるほど。その勢いのままコートから出された。
その日で自分の中で何かが終わった。多少はこれまでバレーに対して喜怒哀楽があったのに、全ての感情が無になってしまって、このチームで勝ちたいとも何も思わなくなってしまった。
その後ケガもしてしまい、益々無気力になってしまった。

しかしチームはもう止まらない。関東、全国と言い続けて、それ以下の目標を掲げることが許されない状態だった。チームの旗もでき、ユニフォームも新しく「茨城」と入ったものが作られた。手作りのお守りを作りあって手紙を入れる的な女子的なことまで。それすらも面倒。熱狂するチームとただ意識が乖離する私。でもこの頃に辞めたらとんだ裏切り者になるのが分かっていたし、辞めた後の学校生活の方が地獄なのも分かっていた。
もう嫌だ、早く辞めたい、でも中途半端で負けてしまったら一体このチームの熱狂はどうなってしまうんだ?という恐怖もすごくあった。

そんな予感が的中してしまう。順調に勝ち上がった集大成の総体県大会、あと1つ勝てば関東掛けのベスト4、そんなところで負けてしまった。結果は県ベスト8。
チームみんな大泣きの大恐慌。そんな中で一人全く泣けない私。泣こうと思っても泣けなかった。そのこともまたショックだった。これまで私がやってきたのは一体何だったんだ?こんな苦しい思いをし続けて最後は泣けないくらいに不完全に過ごしてしまったのか?という気持ちと、本当にこれでもうバレーしなくていいんだという変な安堵。総合してものすごく苦い記憶。もう絶対チームスポーツなんかしない、高校では陸上をしよう、先生にもよくお前なんかチームにいらない、陸上やってろと言われていたし。まずは夏期講習から受けよう。

二度とバレーしない、もう二度とこのコミュニティには関わらない、そんな気持ちが続いていたが、終わった後にバレーする機会(後輩の練習相手をやらされたり…)が何度かあり、そこで一つ気づきを得てしまう。あれだけ入らなかったサーブが入る。
サーブは思いっきり打て!と言われて思いっきり打ってアウトになって怒られてばかりだったが、リラックスして打てばサーブは入る。こんな簡単なことすら先生の言うことが絶対で委縮してわからなかった。

もしかするともっと気楽にバレーはできたんでなかろうか。なんせこれはスポーツだ。根幹は楽しいものではなかったか。
もう一回バレーしてみようかな。この状態が続いたら後悔し続ける気がする。忘れていた楽しさをもう一度取りにいきたい。
そんな気持ちで入った高校バレーは本当に楽しかった。それなりにゆるく、それなりに厳しい。でも体力も技術もついていたから全部のトレーニングについていけるし、むしろすごく上手い部類で褒めてもらえる。嬉しい。
そう思うととても複雑。決して望んではいなかったが結局ものごとを楽しむためには練習量とスキルが必要。子供にやらせたくないが、そういう経験がないまま育った子供はどうなるんだろう。

話の中に入れられなかったが、ゾーン集中を体感したこともある。
地区大会で強めな小学校バレーからの中学にあたり、うっかり負けそうになった時に体育館が停電してしまい、一時試合中断になった。
チームは劣勢、しかもエース対角の私が前衛、攻撃力なし。先生はもうお前らダメだわ諦めな、まぁやるだけやりなさいとかなり投げやりに言われた。
それにカチンときた。期待されていない。スッと頭が冷えていくのを感じつつ、セッターの子に全部私に上げてくれ、全部決めるからと言った。私がこんなこと言うのは本当にないので驚かれただろうな。
それで停電明けから実際に決めまくり、逆転で県大会にコマを進められた。期待されていない方が燃えるらしいし、親が見に来たり注目が集まると緊張してダメになってしまうタイプ。あの脳が冷えていっているのに視界が開ける感じ、ゾーンだったとしか思えない。

あとは、自己肯定感をものすごく潰され続けた経験だったけれど、バレーの推薦の話が1つだけ来たのは嬉しかった。その高校からはこのチームだったら誰でも歓迎、でもあの7番の子が特にいいと言ってくれたらしい。バレー推薦で行くつもりはもちろんなかったけれど、それが一番嬉しかったことかもしれない。先生はお前みたいなのがなんでいいか分からねぇ、なんか勘違いしてるんじゃないかと余計なことを言っていたけど。確かにそうだけど!

最近色々あって、一度過去のバレーの棚卸しをしたくなりました。先生は私たちを関東へ連れていけなかったことを大後悔し、そこからコーチ業を転々としたらしいです。それもまた濃い話でしたが、それは私の話ではない。

余りにも個人的なことすぎて特に学びはないですが、益子さんや大山加奈さんが言っている、暴力のないバレー、自分の頭で考えるバレー、そういうのに心から賛同します。
楽しくて強いバレーがやりたいし、それをやれる子供たちが増えていってほしい。

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部活の思い出

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