あらゆる味わいを、ひとりでじっくり感じてみる　ジン・シィジァ

1）俳優になる前、浙江省水泳チームの選手で、自由形メインでした。2003年には全国青少年水泳選手権大会で準優勝しました。2005年、チームは北京オリンピックに向けての名簿を受け取り、私を含む数人の選手が三年間の非公開トレーニングを開始しようとしていました。おそらく*ずっとプールにいたからでしょうか、（オリンピック選手養成チームの候補になっても）私の頭は冷静でした。当時19歳。私は自分の人生を真面目に考え始めました。自分の実力で中国国内ならば上位に入ることはできるだろうけれど、しかし、オリンピックで結果を出せる可能性は非常に低く、三年間の厳しい特訓をしても初戦敗退すらありうるとハッキリ感じ取っていました。そうして2005年の激動の夏、私は自分に言いました。「金世佳、出口を探すときがきた」と。

それよりも以前、日本の俳優・田村正和さん主演のドラマ「美しい人」（1999，TBS）を観ました。彼が演じた外科医師は王子様のように優雅で、流転の人生と哀愁を深い情感をもってみせ、私の目は釘付け、夢中になり、上海中のビデオ店を回って彼の出演作のCDやビデオテープを、引き出しがいっぱいになるほど、手に入れました。そして彼の演技の真似をしたり、台本を書きとり続けたり、今思うと恥ずかしいのですが面白くもあります。
そうして2005年の夏、出口を探していた少年は彼の秘密基地の宝物に気がついたのです。まるでドラマのような陰謀よろしく、やってみよう、と上海戯劇学院を受験しました。

2）大学を卒業する年、2009年、私は「愛情公寓（愛のアパートメント）」で陸展博を演じました。卒業間近の記念作品くらいに思っていたのですが、まさかの大ヒットになりました。言ってみれば、飲み物を一瓶買ってボトルキャップを開けたら、アタリ！もう一箱プレゼント！みたいな感じです。
幸い、*長年水泳選手として、有頂天になる前に冷静になれと習慣化されてきたのが、ここで再び作用しました。私は学内で尊敬する先生に教えを求めました。彼は私にこんな話をしました。
演技は芸術ですが、俳優は職業です。俳優は名声と富の両方を獲得できる作品に出演することだけでなく、役を通じて芸術的な探求も望みます。あなたの一生にはとても多くの作品に出会うことでしょう。真珠のように明るく輝くものもあるでしょうし、砂利のようにあなたを砕くものあるでしょう。どこまで行けるかは、あなたの強さによります。今迷っているのなら、別の環境での人生を経験したらどうですか、あなたはまだ若い、失敗を恐れずに。
当時、私はわかったようなわからないようなでしたが、ただ最後の一言はわかったような気がしました。
若いうちに失敗をおそれずにいろいろやってみろ、と。
それで私はまさに方々を走り回って掛け合い、先生直筆の推薦状を手に、「愛のアパートメント」に別れを告げ、大阪芸術大学舞台芸術研究科（百度には大阪艺术大学舞台表演研究所と表記）への旅路に着きました。

3）今思い出す日本の初めの記憶は水道水のニオイだけです。親からの援助が得られなかったので、日本留学の申請や学費などすべての費用を自分の貯金で賄いました。授業料やその他の主な費用を支払うと貯金はほとんど残らず生活は極度に貧乏になりました。空腹を満たすため以外の出費は何もできません。最悪の時は三日連続、水だけで過ごしたこともあります。空腹と寒さからインスピレーションを得たのか、それとも貧血が大胆な行動を促したのか、この間、私は田村正和さんに長い手紙を書きました。彼のそれぞれの作品を私がどのように歓んで観ているか、彼が良い俳優になるためにどうしたのか、本当の演技とはなにか、など高尚で深遠で掴みがたい話題を書き綴りました。悪戦苦闘して推敲し、何度も書き直し、ようやく整え終えたのは冬が間近にせまるころでした。手紙を封筒に入れて封緘して、それからカバンにいれました。が、次のステップまでまだ半月かかります。
手紙をポストに投函した日。私は新聞配達をしていて、冬で初雪が降った日です。青空の下、ときおり風花が舞うなか、前触れもなく道路わきのポストが視界に飛び込んできました。「やってみよう」と心のなかで静かにつぶやき、カバンの中の手紙を取り出すと素早くポストに投げこみました。

4）空腹を満たすために私は仕事を探し始めました。まず大阪の様々な求人サービスを、それから下宿近くの商店街で自らバイト先を探しました。ある朝早く、近所のバーからバーテンダーの試用に来て欲しいというショートメッセージを受け取りました。私は大喜びで、バーテンダーのような、ある種の高級でキラキラとカッコいい仕事に応募するつもりでバーに行きました。が…事実は私が考えすぎなのを証明しました。私の仕事はただ一つ。グラス洗いです。
グラス洗いといっても簡単ではありません。洗って、蒸気消毒をし、拭きとる。三つのステップを経る必要があります。もっとも困難なのは、１プレート、約２０個の、揺れてぶつけたら割れそうな高い足付のグラスを高温蒸気滅菌器から取り出し、乾いた布で、オーナーが求める「水晶のよう」に拭きあげることです。そのバーにはだいたい300杯のグラスがありました。独特の模様のマティーニグラスがあり、それを少なくとも６回洗浄したので、おそらくその夜２０００杯近くのグラスを切りまわしたのだと思います。午前３時にバーから疲れて帰宅して見た夢は輝くグラスと湯気でいっぱいでした。
二日目、私はまたバーに出勤しましたが、オーナーは「もう来なくていい」と言うのです。昨日はグラス洗浄員が病欠で、私は試用期間中の代役として呼ばれたとわかったのですが、さらに言葉がなかったのは、試用期間中は無給、ということでした。
この「グラスの試練」以降、天の神様も見かねたようで、ドラマが徐々に流れを変えるように、私は仕事のキャリアを一新するつもりで新聞配達から牛乳配達、配膳、おにぎり作りなどの普通のアルバイトから、道路工事や引っ越しなどに拡がり、お寺の僧侶が法事で不思議な作法をする手伝いもしました。経済状況も改善できてよかったのですが、唯一残念なことは、掘削機を一度も運転する機会がなかったことです。
当時のシンプルさと力強さのためか、私の学業や舞台劇への出演もだんだん順調になり、大阪府内であったクラスメートたちとの舞台劇にも何度か参加しました。

5）2009年に陸展博を演じたとき私の体重は90キロありましたが、日本生活の清貧さで留学を終えて帰国するころには74キロまで減り、それまで欠けていた「メリハリ感」が現われました。髪は長く、まるでアンダーグラウンド音楽のロック歌手のようになっていました。散髪代が高かったからです。節約のために船で二日かけて帰国しました。母は遠くから私を見つけると涙を手で拭っていました。
（留学期間。2009年10月6日～2010年9月28日AM8：30大阪市東淀川区淡路から帰国）
この文化芸術の道で陈建斌さんに知り合う機縁に恵まれ、寒い冬に西北部（2014年1月、甘粛景泰県）で文学映画を撮影しました。ずっと風邪をひいていました。幸運なことに2014年に撮影したこの映画は（第５１回）金馬奨で5部門にノミネートされました。私はこの映画「一個勺子」で私は勺子（スプーン）、意味は馬鹿者です。（“勺子”と馬鹿者を意味する“傻子”で発音が似ている）

6）私はずっと人生を20年ごとに4つのパートに分けるべきだと思っていました。どう分けるかというと、探索、奮闘、不惑と百味です。
さまざまな大きな変化のすべて、幼い頃水泳部に入り、青年期に演技の道に路線変更して、いささか名前が売れたところで一切を放棄して単身異国に渡り、水だけで日を送ったり、また新聞配達をしたり、グラスを洗ったり、ストップウォッチを握って二個目のおにぎりをとりに行ったり（一個目を取りに行ってばかりだと恥ずかしいし、遅れれば次の日の食べ物がないから）、再び男性主人公を演じる。……すべては、スープスプーンで様々な味を浸るように感じ取り、その感覚はずっしりと重いものに変わり、充実した暮らしを支えます。
俳優は私の職業であり、生活のすべてではありません。相変わらずバスと地下鉄を利用していますし、最も利用しているのは自転車で、最大の趣味は苔を育てることです。……ときどき１０年後の自分の姿を楽しみにしています。
ああ、それから田村正和さんからの返信について忘れるところでした。大意はこんな感じです。
「金さん、たくさんの応援と愛をいただいてとても光栄です。あなたが俳優業に身を投じてくれたこと、また日本で研鑽を積まれたことをとても嬉しく思います。あなたの様々な出会いは、あなたの人生であり、経験は後にすべて財宝になります。私はただ演技をしてきた役者にすぎません。人生はあまりにも複雑で、私もすべてに明るいわけではありません。ただあなたにこの四文字を贈りたいと思います。好好感受（ちゃんと感じて）。」

追記:2018年、舞台劇「狂飙」日本公演の折でのWBで金世佳自身が田村正和さんからの返信に触れている。そこを追加する。

田村正和先生给我的回信里他告诉我,每个人都有每个人的生活,自己也不是事事明了,希望我在自己生活里的好好感受...我带着这一句“好好感受”走过到了现在,
の部分。
田村正和さんからの返信の中で、「人にはそれぞれの人生があり、自分のことさえすべてを知っているわけではありません。私は自分の人生を気持ちよく過ごしたいと願っています」…私はこの"心地良く過ごす"を心がけて今に到っています。

20231020加筆