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闘う君の唄を、闘わない奴等が笑うだろう

ここ数日、ASKAバンドのバンマス澤近泰輔さんが一緒に活動されている宇海さんの「ファイト!」を聴き続けてます。

澤近さんのメモリアルなコンサートで昨年、宇海さんのこの曲の歌唱を聴き、とても胸に残りました。
宇海さん、同じステージで「Time to say goodby」も歌ってらっしゃいましたが、クラシカルな歌唱もとても美しい上に中島みゆきさんの曲も歌いこなす、本当に才能に満ち溢れたシンガーだと感じています。


「ファイト!」の歌詞って、すごいですよね。
日本語として、身体感覚の「痛さ」を感じさせる言葉を敢えて使いまくっていて、聴くと心の中の鱗がはがれ落ちます。
私は痛みに弱く、映像や文章でも痛みの表現がとてもリアルに感じて心底怖いので、「ファイト!」は出だしを聴くだけで胸がヒリヒリと痛くなります。

痛い言葉って、例えばこんな感じ。

女の子の手紙の文字は とがりながらふるえている

悔しさを握りしめすぎた こぶしの中 爪が突き刺さる

光ってるのは傷ついて はがれかけた鱗が揺れるから

こういうビビッドな言葉選び、最近はあまり見ない気がします。

前半は、自分のせいでないのに負けの人生を強いられている、子供や女の子の姿。これをちょっと引いた目線で描いているのが、「女の子の」とか「子供たちの」などという客観視の言葉でわかりますね。
その後カメラがぐぐーっと人の内面に寄っていくところが、とても好き。

後半になると、まるで女性たちの独白が手紙で届けられているかのように、いくつかのエピソードがぶつ切りに並べられていきます。なんだかラジオのお便りコーナーを聞いてるような気持ちになる。
自分の手で運命を変えられない人たちからの嫉妬、嘲笑はすごくしつこいんだろうな。これを浴びる女性たちの、怒りと悔しさ。

この曲を聴くと、私はこんなにわかりやすくひどい状況には幸運なことに置かれていないのだけれど、でもやっぱり共感が疼くのはなんでだろう。
「ファイト!」の中で私が一番怖いのは、実はこの歌詞なのです。

私 本当は目撃したんです 昨日電車の駅 階段で
ころがり落ちた子供と つきとばした女のうす笑い
私 驚いてしまって 助けもせず叫びもしなかった
ただ怖くて逃げました 私の敵は 私です

つきとばしたのが女だからこそ、尚更怖い。
こういうエピソード、歌の中でしか表現できないなって思いますよね。特に、昨今では。

私も時々、この女性のようにすくんでしまうことがあります。私の敵は私なんだと、思う機会がたくさんあります。
あの時どうしたら良かったんだろうと、ずっと思い返すような出来事。

その時の気持ちを、言葉にしておきたくなります。言葉にしないと、この気持ちもなかったことになってしまいそうで。
でもその書き先は、SNSではダメなんです。
ここ最近のSNSに溢れる文字コミュニケーションは、ほとんどが論破と断罪。
こうすべきだ、という解答ばかりがぶつかりひしめき合っていて、迷いが存在する隙間がない。

迷うことは、闘いだと思います。
その迷いに目を向けずに、客観的視点を武器に断罪していく言葉は、まるで「闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう」の、その嘲笑の声に聞こえるんですよね。
そう思ってから、私はあまりSNSを読み込まなくなりました。
だってその声は、私の人生に力を与えてくれないから。

だから、中島みゆきさんの言う「唄」が、世の中には必要だなぁと切に思います。
唄の名では、迷ったり、希望のかけらを見つけ出したりできるから。

ああ 小魚たちの群れきらきらと 海の中の国境を越えてゆく
諦めという名の鎖を 身をよじってほどいていく

それにしても「あいつは海になりました」って、良い言葉だよね。


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