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ラベルを捨てて生きてみたら。 《とみさん インタビュー・前編》

世の中には、とても真似できない超人的な技術を持っている人がいる。

まず、この動画をご覧いただきたい。
桑田佳祐とMr.Childrenがコラボした楽曲「奇跡の星」。
この、全く違う個性を持つボーカルが交互に歌い上げる楽曲を、同じ人物が見事に歌い分けているカラオケ動画だ。


彼の名前は"とみさん”。
知る人ぞ知る、カメレオン・シンガーだ。


5年ほど前にテレビ番組「ピラミッド・ダービー」で"歌うまサラリーマン"として紹介されていた彼の歌声を今聴ける場所は、YouTubeである。
チャンネル登録者数は8万人以上。
毎日1本の動画が公開され、最多ビュー数はWANDS「世界が終わるまでは…」を歌った動画で200万再生を誇る。

YouTubeの歌まね動画は、コスプレや何人もの歌手の歌い分けなどパッと目立つ企画系のものが多い。テレビでも最近は歌まね企画が多いが、出場するユーチューバーも皆、わかりやすく見せるために工夫を凝らしている。

そんな中、カラオケボックスの飾り気のない背景で淡々と動画を上げ続けるとみさんは、異例の人気を誇っている。
その人気の理由は、彼のボーカルの実力以外には考えられない。

先ほどの桑田佳祐や桜井和寿だけでなく、CHAGE and ASKA、B'zなどJ-POP四天王といえるようなアーティストの曲は、もはや本人の歌唱と聴き分けがつかないほどだ。

他にも最近のヒットソングから洋楽、女性ボーカルまで、幅広く「本人を感じる歌唱」を聴かせてくれている彼のYouTubeチャンネルは、この日本で愛されてきた歌謡曲、J-POP、総じて歌の宝庫だ。

一体、この"とみさん”とは何者なのか。
本格的なシンガーなのか、それとも「ピラミッド・ダービー」で紹介されていたような"歌うまサラリーマン"の一人なのか?
プロなのか、アマチュアなのか、傍目にはよくわからない。

世間は、人を理解するためにラベルを貼り付ける。そうやって互いに理解し合い、世界は回っているのだろう。
だがとみさんにインタビューを試みると、そんなラベルが粉々になるような熱い人生が見えてきた。

●アラフォー"郵便配達員"シンガー

ーーまず、こんな質問からで申し訳ないのですが、とみさんって一体何者なんだろうか? というのをこのインタビューでは明らかにしていきたいんです。音楽では、プロとしてご活動されてるんでしょうか。

はい、20代半ばからずっと活動してます。

ーー今年おいくつですか?

44歳になりますね。


ーーということはもう20年近くずっと活動されてるんですね!
この年代って、私も同じだからわかるのですが仕事に家庭に大忙しで、自分のやりたいことを貫くのは大変ですよね。確かとみさんはピラミッド・ダービーで「歌うまサラリーマン」や「郵便配達員」と呼ばれていたそうなのですが、音楽以外のお仕事と両立されてるんですか?

はい、今もあの頃と同じ職場、郵便配達の仕事をしてますよ。
20代の頃、音楽とバイトだけじゃダメだなって時期がありまして、仕事を探したんです。そうしたらありがたいことに、僕の活動を理解してくれる上に時間の融通も効く職場にうまく出会えて、もうずっとそこで働きつつ、二足の草鞋という感じで。

ーーそれは良い巡り合わせでしたね。でも結構日々、お忙しいんじゃないですか?

まあ、楽な感じではないですよね。だけど音楽との両立生活に関しては、僕は割と気に入ってるんですよ。
一緒にやってるバンドのメンバー達がいるんですが、みんな日々をそれぞれの場所で頑張っていて。それで音楽をやるときは集中して集まって、一緒にライブを成功させようという目的で頑張る。お客さんに「また来ますね」と言ってもらえたら、次の目標のためにまたそれぞれの場所で頑張るという、この繰り返しが好きなんですよね。


●野球仕込みの地喉の強さ

ーーとみさん、音楽を始めたのはいつ頃ですか?

18歳ですね。それまでも音楽は好きでしたが、本格的に楽器を始めてバンドで人前に立つようになったのはその頃です。僕、小1から高3までずっと野球少年だったんですよ。高校では一応、甲子園に出場しまして。

ーーえっ、それはすごい! とみさん、体格がガッチリしてますし、他のボーカリストと比べて声量が半端ないと思っていたんですが、これは野球仕込みなんですね。

うーん、野球の練習中ってずっとロングトーン出してるんで、それで鍛えられたかもしれませんね(笑)。確か野球部のメンバーはみんな歌がうまかったと思いますよ。

ーーまさか(笑)! 学生の頃から歌声には自信ありましたよね? カラオケではものすごくチヤホヤされてたと想像するんですが。

いやいや、なかったですよ。

ーーでも一緒にカラオケ行ったら絶対にとみさんにリクエストしますよ。

まあ確かに、野球部の先輩から急に歌えって言われたりとか、無茶振りはありましたけどね(笑)。

ーー歌ったんですか?

歌いましたよ(笑)。ASKAさんの「晴天を誉めるなら夕暮れを待て」を本気で結構なボリュームで歌って、逆に引かれましたけどね。「ああ、ありがと」みたいな(笑)。

ーーそれは無責任な(笑)。でもそうやって周りから求められてきたら、自信は持ってたんじゃないですか?

いやそれが、学生の頃も自信はなかったですし、今でも自分の歌はピッチが悪い方だと思ってますよ。


ーーまたご冗談を…。

いや、本当なんです。うまいとは思わないんですよね。自分でこれでいいと思わないから、今でも練習してるのかも、とは思います。うまいって思っちゃったら、追求することがなくなっちゃうので。

ーー確かに、おっしゃる通りです。

歌って、面白いんですが100点満点というのがないんですよね。どれだけうまく歌えても、どこか反省点があるんです。ずっと過渡期にいる感じで精進し続けるものなので、一生取り組みがいがある面白いものだなと思ってます。


●バンドと野球はよく似ている

ーー野球を本格的にやってきて、大学野球やプロへの道は考えなかったんですか。

小さい頃は思ってましたけどね。でも高校の3年間、怪我を抱えちゃってたんですよ。通院しながら野球していたので、もうこれは続かないなと区切りをつけて音楽の道に切り替えたのがちょうど18の頃で。
遅咲きだなっていうコンプレックスが、いまだにありますね。音楽を始めた頃から人前で演奏はしていたんですが、いざプロになろうとすると、まだそういうレベルじゃないっていう意識がずっと越えられなくて、ようやくOKが出せたのが20代半ばという感じで。


ーーとみさんはメンタルも野球仕込みですね…。周りが就活していく不安な時期、ご自身の実力としっかり向き合っていられたと。デビューした時も、「とみさん」として一人でご活動されてたんですか?

いや、一人ではあるんだけど「WATER//COLOR」という、バンドみたいな名前を付けてデビューしました。バンドサウンドをやりたかったですし、「T.M.Revolution」みたいに、一人だけどバンドに見えるようにというコンセプトで。父が音楽業界でずっと仕事してまして、一緒に考えて付けましたね。

ーーそうか、お父様と二人三脚で。一人でやるのはこだわりがあったんですか?

いや、本当はバンドが好きです。デビュー時にたまたまメンバーがいなかっただけで(笑)。デビューしてすぐ、ライブをやるにはバンドメンバーが必要だと気付きまして、結局すぐメンバーを集めましたけどね。
バンドって、野球に似てるところがあるんです。僕は結構、この一瞬を頑張るっていうタイプで、野球をやってた時も目の前の練習をコツコツやる感じだったんですよ。それしかできないんですよね。これは音楽に取り組むときと変わらないなと。
それと、野球は集団競技なので、みんなで同じ目標を目指すじゃないですか。あれがすごく好きで。野球なら試合に勝つこと、音楽ならいいライブをやることっていう目標をみんなで共有して、それに向かって努力して、達成したらみんなで喜ぶという、そういうシンプルなところですよね。好きなのは。


ーーとみさんが好きで聴いていた音楽も、やっぱりバンドが多かったんですか。

多かったですね。影響を受けたものが、ほとんど洋楽のバンドでした。子供の頃から高校生までは、ずっと邦楽を普通に聴いてたんです。それがある時、親からビートルズを勧められて、聴いた瞬間にものすごく衝撃を受けまして。
その時に「これ以外は音楽でない!」みたいな変なスイッチが入っちゃいまして、チャゲアスを残して他のCDを全部捨てるという奇行に走ったという。まあ、後で後悔してまた買い直すんですが…。


ーーすっごい極端! とみさんって柔らかいお人柄なのに、たまにものすごく硬派な面を垣間見せますよね(笑)。

ああ、そうかもです(笑)。

ーーチャゲアスだけを残したのは、音楽性に惹かれていたからですか?

いや、チャゲアスだけは音楽性とは全然別次元の存在で、本気で神様のような、日本一カッコいいお二人だと思っていたので、これだけは手が出なかったですね。
お二人の曲は、元々僕は光GENJIが好きでしたし、その後チャゲアスに出会った時にはものすごいハマり方をしましたので、きっと音楽性が自分に合ってるのかな、とは思います。


●必死で探した、自分の道

ーーとみさんのルーツとしての大事な存在に、チャゲアス、ビートルズがあったと。そして25歳でデビューされて。そこからどんな道を辿っていくんでしょう?

かなり険しい道ではありましたね。これはもうそういう運命だと思うんですが、デビューしてからすぐに身内の病気が発覚して家に多くの時間をかけなくちゃいけなくなって、一番頑張らなければいけない時期に、僕が音楽活動に全力を向けることができなかったんです。

ーーそれは…大変でしたね。

割とその時期が長く続いて。音楽を全力でやれていない感じって、どうしてもライブで出ちゃうんですよね。このままじゃ上にはいけないというのをライブをやるごとに毎回感じてましたし、しかもそれが自分の練習不足のせいだとわかるので、きつかったですね。
メンバーにも、みんなのテンションが下がってしまうのを避けるために伝えていなくて、そのせいで途中で離れてしまった人もいましたし…そのまま30歳に突入しちゃいまして。そこを区切りにまたメンバーが減り、ついにベースと僕だけになっちゃったんですよね。


ーーメンバーに言わないなんて、とみさんってなんて硬派な…。スタートダッシュがかけられないのはかなり苦しかったと思います。そこからは?

まずベースの彼と、音楽を続けたい気持ちを確認しあって、そこからデモテープを本気で作ったんです。二人の中ではそれが転機になりましたね。またバンドメンバーを一から集めて、今の形に至ります。「とみさん」という一人名義に変えて、もう5、6年経ちますかね。

ーー結構長い音楽半生になりますが、これ一本に絞ってやっていきたいって気持ちは持ったことないんですか?

そうですね…メンバーが抜けちゃった頃、一人で活動することも考えなきゃなと思って、僕一人で事務所に所属していたこともあるんです。でも、そのやり方だと自分の生活で大事にしてる部分や考え方を削る必要があって、自分はこのままどうなっちゃうんだろうと怖くなる時期があって。

ーーというのは…。

いわゆる音楽ビジネスっていうものですよね。父が音楽業界の人なので、昔からよく聞いていて必要以上に知ってしまってるのもありますが、僕は昔から、あまりその世界観が好きじゃないなと思っていて。なんというか、僕が大事にしていることと違う論理で動いているのを感じてしまうというか。
例えばですが、僕はライブでちゃんと歌えることが大事だと思ってるんですよね。いくら時間がなくても、やっぱりそのために練習するんです。でも、そういうこととはまた別の価値が重視されてるというか…。これ、批判をしてるわけではないんですよ。僕がそう思ってしまう、ということなんです。


ーーやっぱり、削られるような気持ちになってしまうんですね。

だから僕は普通のやり方を捨てて、ちょっときついけど、自分で道を作っていくしかないなと思ったんですよね。


●神様だったASKAにYouTubeを伸ばされて

ーーとみさんは音楽を好きでい続けたいんですよね、きっと。でもそれは、うまくバランスを取らないとかなり難しい道でもあると。

30代半ばくらいで、初めて「もう辞めようかな」と思った瞬間があったんです。僕これやっていけないな、体がもたないな、という瞬間があったんですよね。
でも、お客さんがゼロにならなかったんです。これは本当に支えになりましたね。色んなライブハウスで演奏してきた中で、お客さんがゼロの状態でやらなきゃいけないバンドもたくさん見てきましたから。かなりきついと思うんですが、僕たちは本当にありがたいことに、ゼロになったことがないんです。
たった一人でも、その人がいる限り僕の存在理由を感じますし、「また来ます」の一言で次も絶対やろうと思えますしね。続けさせてくれた皆さんには本当に感謝しています。


ーーファンの方と良い関係を築かれてきたんですね。それでもきつい時期があったと。その葛藤してた時期って、YouTubeを始めた時期と同じですか?

そうですね、重なってますよね。'14年だったかな? すごく応援してくださるファンの方がいて、とみさんは歌まねの能力が尋常じゃないから、絶対にYouTubeにアップするべきだと言ってくださっていて。
その頃の僕は、ライブで歌まねどころかカバー曲をやるのすら抵抗があったんです。一回やっちゃうと、そればっかりの注文になることが見えるので。それに僕はすごいアナログ人間なので、あの当時もYouTubeがなんなのか知らなかったんですよ。でもそのファンの方に猛プッシュされたので、一回やってみようかな、とふと思ったのが、ちょうどその葛藤してた時期でしたね。


ーー最初はどんな動画を?

チャゲアスのカバーを何本か。一日だけカラオケに行って、フリータイムで歌えるだけ歌ってYouTubeに上げてみたんですが、信じられないような反響が返ってきたんです。
それで、もしかしてこれはちゃんとやらないといけないんじゃないかと思い直して、最初に勢いで撮った荒い動画は全部削除して、改めて何本も撮り直しました。あの白いシャツの動画ですね。

ーーこの2014年って、もしかするとASKAさんのあの事件の時期と重なるんじゃないですか?

そうなんです…これはもうかなり影響ありましたね。僕が動画をアップしたのは事件の前だったんですが、あの事件後にものすごい数のファンの方が僕のYouTubeに観にきてくださったんです。一日に何千、何万と、とんでもない増え方をしていました。

ーーCDが世の中から回収されて、チャゲアスを聴けなくなることを悲しんだ人たちが必死に探したんですね。そういう人たちの耳を満足させることのできる動画が、とみさんのものだったと。なんだかすごく、運命を感じます。

当時は、僕にとっても印象的なきっかけがあって。仕事場から帰る途中に、品揃えが僕好みのすごく良いCDショップがあったんです。そこを覗くのが楽しくてよく立ち寄ってたんですが、あの事件の後、チャゲアスのCDが全部棚から消えてたんです。
それを見た時に僕は、なんかカッときちゃったんですよね。すごいショックと同時に猛烈なやる気が出て、使命感みたいなものが湧き上がったんです。これはやらないと、と。勝手にですけどね。
そう思って、そこから真剣に取り組み出したというのがあるかもしれないですね。チャゲアスの楽曲に関しては。「離れないでくださいよ、みんな」という、当時はそんな気持ちでした。


ーーとみさんのYouTube活動をまとめると、元々アナログ人間でYouTubeに興味がなくて、それにすごく芯を持つタイプなので、人のカバーや歌まねには拒否感があった。でもASKAさんの事件があったことによって、カバーを求めてる人がいることに気づいて、自分からも伝えなきゃという気持ちがわっと湧き出した…と。そういうことでしょうか?

もう本当に、そういうことだと思います。YouTubeに関しては、最近は世の中のニーズも大きく変わってきましたね。僕のチャンネルを見にくる動機って、本家の公式がアップしていなかったからなんです。
でも'20年代に入りコロナの時期になって、公式がYouTubeを使い始めましたよね。それによって、僕の動画を見にきてくれる人は確実に減ってはいるんです。


ーーそれでも、忙しい中で毎日1本は欠かさずアップしている。このモチベーションは何ですか。

やっぱり、コメントを頂けることですね。これはライブと変わらないです。目の前の人が楽しんでくれてるのがわかるので、やらなきゃ、と思うんです。

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そうして、とみさんがここまでYouTubeで歌ってきた動画は、実に今1,600本近くまでに積み上がっている。まるで野球の1,000本ノックのように、一足飛びを目指さずにコツコツと。

少し不器用だけれど、だからこそ「目の前にいる人をどれだけ楽しませるか」に集中してきたとみさんは、デビューから悩みながら歩いてきた道の中で確実に進化を続けてきた。

インタビュー後編では、このYouTubeを始めてから大きく運命が書き変わっていったとみさんの「今」について伺っていくことにする。

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インタビュー・後編はこちら

  • 2023年4月3日 配信楽曲

  • とみさんYouTubeチャンネル

  • とみさん ブログ

  • オフィシャルサイト

  • とみさん Twitter


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