【オンスロート・オブ・ア・ダイコク・フロウ】#2

承前

 ガイオン・シティの栄華は、厚化粧のオイランの美麗さと似ている。詮索の気無しに表層だけを見やるならば、憂いはない。ただただ、美しい。厚化粧をしたオイランは、何も自らを誇示するためだけに化粧をしているのではない。コンプレックスの反動でもない。己を見る者達の眼に彩を添えたい、美しい物を魅せてやりたい……そういったオモテナシめいた精神を着飾っているのだ。

 では詮索の気あれば。厚い化粧の下の素顔を覗けば?……畢竟、見る必要のないものを見れば然るべきインガが待つ。繁栄と神秘、美麗、奥ゆかしさ。それらが虚飾であると知る。ガイオン中心部や、観光事業に栄える一部の区画から目を離せば、暗澹たる荒廃が極自然と其処彼処で蠢いているのだ。

 地下に広がるアンダー・ガイオンだけが退廃と不道徳に満ちているのではない。或いはアッパー・ガイオンに蔓延る邪さの方が余程悪徳であるやもしれぬ。より狡猾で、陰湿で、理不尽。それらが底無しの闇を生み出し、その闇に悪しき心持つ者らが隠れ潜む。

 そして闇に蔓延るのは人のみに在らず。人の理を外れた超常の者たちもまた、邪悪に心を染めて舌舐めずりしている。闇の中で。

 ……たとえばそう。ガイオン地表の美観を保つアーティファクトのひとつ、コンデンサめいて等間隔に建つ五重塔に目を向けられよ。それらのなかには、表面を奥ゆかしい装飾に着飾って偽装した欺瞞的違法施設が紛れ込んでいるのをご存知であろうか?公然と衆目に触れている文化的伝統建築物にすら、闇は潜んでいるのである。

 それら偽装された違法施設のひとつ、監獄めいたオイラン養成所には惨憺たる破壊と殺戮の痕跡が刻まれていた。収監されていたアワレな幽閉オイランたちは、突如として現れた襲撃者によって『解放』され、冷たくなって横たえている。

 いま施設内には襲撃者の影はない。悍ましき死屍累々の有様だけが残されている。しかし、もしあなたがニンジャ洞察力をお持ちであれば、この場に残された他の手がかりに気がつくことであろう。即ちニンジャソウルの残滓、軌跡。襲撃者と、それを撃退するためにエントリーした施設防衛ニンジャの足取りを。

 そしてその足取りが、施設外へ、上へ、上へと続いていっていることを理解いただけただろうか。……ならば耳を澄ませられよ、サツバツの夜に響く恐るべき惨劇を臨め。


◆◆◆



「イヤーッ!」

 絢爛の夜を眼下に見下ろす五重塔のひとつで、恐るべきカラテシャウトが響いた。黄土色の装束を翻したニンジャが瓦屋根を蹴り飛び、その手に携えた鈍く光る刃を振り抜いて残光を闇に走らせる。

「グワーッ!」

 袈裟斬りに斬りつけられた痩躯の男がたたらを踏んで後ずさった。彼の纏う拘束衣めいた装束の革ベルトや鉄輪が擦れ合ってガチャガチャと音を立てる。刃の主たるザイバツ・ニンジャ、ストークレイザーは彼を睨んで更なる追撃を試みる……「イヤーッ!」否、連続側転で回避!何を?

 BRATATATA !!!

 銃弾を!一瞬前まで彼がいた地点をサブマシンガンのフルオート掃射が射抜き、熱帯びた鉛弾が闇に舞う!

 ストークレイザーを睨みつけて遮二無二銃身を振り回すのは小柄な娘だ。袖や裾が毟り取られたドレス、絶望と荒廃に澱んだ碧眼。華奢な体躯。少女は奥歯を噛み締めながら、敵の姿をそのターコイズブルーの瞳で追う。トリガーを引き続ける。

 BRATATATATA !!!
 BRATATATATA !!!
 BRATATATATA !!!

「イヤーッ!イヤーッ!イヤーッ!」

 黄土色装束の男はしかし、彼女の銃撃をものともせずに容易く回避、回避、回避……「豆鉄砲でニンジャを殺せるものか、小娘!」苛烈な鉛弾の嵐を無傷で潜り抜けながら叫ぶ。「下衆に与する不良児童!貴様には後でしっかりと教育を施してやろう」少女の碧い瞳が不快げに細まった。言葉は彼女に向けたものであるがしかし、ストークレイザーの視線は少女には向いていない。殺意に濁る双眸が睥睨するは痩躯の男。

「……先に彼奴を仕留めてからな!震えて待っておれ!」

 言葉を吐き捨てたストークレイザーに向かって、少女は引き金を引き続ける。

 BRATATATATA !!!
 BRATATATATA !!!
 BRATATATATA !!!

「イヤーッ!イヤーッ!イヤーッ!」

 回避、回避、回避。回避ムーブから続け様に跳躍、「イヤーッ!」先ほど斬りつけた痩躯の男へ急速接近!少女は銃口を向けるがしかし。CLICK、CLICK。ナムサン、アウト・オブ・アモー!彼女は苛立ちを顔色に僅かに覗かせ、空になったマガジンを放り捨ててリロードしだす。その頃には既にストークレイザーは男の眼前へ。

「死ねーっ!デスドレイン=サン!死ねーっ!イヤーッ!」

 カタナが振るわれる!邪神存在をその身に宿した凶悪ニンジャ……デスドレインの痩躯に冷たき刃が走った!

「グワーッ!」デスドレインは拘束衣をはためかして上体を仰け反らせて身動ぎ……「グワッ、ハ……ハ。ハ。ハ。ハハハハハ!ヘヘヘハハハハ!」嗤った。彼の病的な色白の肌から、血液の代わりに迸る暗黒の液体が躍動し、ワームめいて犇いて刃の主へと襲いかかる。

「ヌゥーッ!イヤーッ!イヤーッ!」急速バク転回避、しかし暗黒の流動体は執拗に迫る。「イ、イヤーッ!」カタナを振るう。コールタールめいた汚泥が飛沫を散らす。刃の光が暗黒を断つ。斬る、斬る、斬る……そしてすぐに繋ぎ合わさる。目を見開く彼の四肢に暗黒物質が瞬く間に纏わりついて締め上げた。「グワーッ!?」拉げた腕からカタナが落ち、金属音を響かせて瓦屋根を跳ねる。

「ヘヘヘヘヘ。捕まえたァー……」

 痩躯の男は悪魔めいた笑みをたたえ、仰け反っていた上体をゆっくりと起こす。斬り裂かれた傷に暗黒物質が黒い泡を立てて流れ込み、裂傷を埋めていく。男はそれを見せつけるように拘束衣めいた装束をはだけさせながら、獲物のもとへ歩み寄っていく。

「残念だったなァ?頑張って斬ったのによォ、ヘヘッ、無駄だ!全部無駄!」せせら笑いながら片手を突き出す。「グワーッ!」ストークレイザーの四肢を縛る暗黒物質が柱のように屹立し、彼は滑空するムササビめいた状態で宙吊りに拘束された。

「グワーッ!チ、チクショウ……!」

「へへへ……オイ、アズール。こッち来い!」

 彼らから少し離れたところに佇む少女の方へ、デスドレインが首を巡らせて言った。アズールと呼ばれたその少女は頷き、リロードを終えたサブマシンガンをスリングベルトで肩に掛けて彼の方へと歩く。潰れたスニーカーで瓦を踏伝う。吹き抜ける夜風と瓦屋根の傾斜を不安がって、足取りは慎重だ。

「いや、遅ェよ。チンタラしてンじゃねェ」

 痩躯の男は気怠げな声音を紡いで己の頸をバリバリと掻く。暗黒の触手が少女の方へ伸びていき、彼女の細い腰に巻き付いた。華奢な身体が宙を舞って彼の方へと手繰り寄せられる。デスドレインの側にまで少女を引き寄せると、触手は液状化して男の身体へと染み込んでいった。解放されたアズールは足を踏み外して転げ落ちそうになり、咄嗟に腕を伸ばして彼の腰元にしがみついた。

「……ッ」

「へへ、ダセェの……」

 せせら笑うデスドレインに歯噛みして、アズールが彼の腰元から離れようとする。彼はその様を揶揄いながら少女をかき抱き、彼女の髪を不躾にクシャクシャと撫でてから腕の力を弱めた。アズールはバランスを崩して転んでしまわないように、慎重に彼の腕から抜け出した。デスドレインはケタケタと笑って、自由を奪われたストークレイザーの方へと向き直る。

「ンー、どうすッかなァ。……あ、そうだ。これ、使わせてもらうぜ」囚人メンポの下の口元に下劣な弧を描いて、触手を伸ばす。向かう先はストークレイザーが取り落としたカタナ。黒い蔦めいた触手がそれを拾い上げ、宙に吊るされた持ち主の元へと迫る。

「ヤ、ヤメロー!ヤメロー!」

「ヤメロー!ヤメロー!……へへへへ!」

 戯けて言葉を真似してみせた後、彼は触手にカタナを振り上げさせた。「アバーッ!?」宙空に留められたストークレイザーの胸元から腹部までがバッサリと斬り裂かれる。「アバッ、アバババーッ!」絶叫して痙攣する彼の身体からボトボトと血肉と臓腑が零れ落ちていく。その光景に目元を愉悦に歪ませ、悪魔は嘲笑った。

「へへ、きッたねェなァー!ンなもんブチ撒けてンなよ!」カタナを明後日の方角に放り投げたアンコクトンの触手が、辺りに散乱する腑を無造作に呑み込みながら拾い上げていく。「しゃあねェから戻してやるよォ」ニタニタと笑んで拾い上げたそれらを、アンコクトンごとストークレイザーの肉体に生じた裂け目に無理くり詰め込む。

「アバッババーッ!!アバッ!アアアーッ!?」

 歪に膨張するストークレイザーの肉体のあちこちから血肉と暗黒物質が交わったグロテスクな肉塊が溢れ出ていく!コワイ!

「へへ、アバッアバッ!アババッ!アバッ、ハハハハハ!ヘヘヘハハハ」

 おお、ナムアミダブツ!何たる猟奇的饗宴か……!ストークレイザーとて理不尽を振る舞う邪悪なニンジャであるが、デスドレインは彼を上回る不条理存在であった。アズールはその悍ましき光景をジッと見つめている。犠牲者のあげる壮絶な絶叫にも、咽せ返るような血肉の臭いにも、少女はとうに慣れてしまっていた。

 とはいえ、彼女にとってそれは喜ばしいことではない。表情に乏しい仏頂面には不愉快さの色が僅かばかりにみえ、翳りを落としている。アズールの視線の先では、デスドレインが勿体ぶるような手付きで、ストークレイザーの眼窩に枝めいた指を突き刺して彼の眼球をくり抜いていた。

「アバッ……アババッ……」ザイバツ・ニンジャは息も絶え絶えに激しく痙攣し続けている。「ゴボッ、オゴゴッ」彼の口から這い上がってきた暗黒物質が、メンポを押し除けて流れていく。最早その命はロウソク・ビフォア・ザ・ウィンドといえよう。デスドレインは呆れたように肩を竦めた。

「アーア、もうへばッてンのか、テメェ。だらしねェなァー……アア?なンだよアズール、興味津々か?お前もやりてェか?コレ」少女の視線に気づいたデスドレインが、指に刺さった眼球をチラつかせながら少女に声を掛ける。「それか、お前もほじくられてェか。目ン玉」アズールは後退りながら首を横に振った。

「ヘヘヘハハハハ。ビビッてやがンの。やらねェよ、やらねェ」

 彼は肩を揺すって笑い、ゴミの如くに眼球を放り捨てて歩き、少女の前に立った。目玉焼きめいてべチャリと瓦に潰れるそれを一瞥することもなく、彼はヤンク座りで屈み、アズールに視線の高さを合わせる。

「お前の眼ェ、空色だもンなァ。ヘヘヘへ」

「……?」

 いつものような悪辣なニヤケ面をした彼から紡がれた言葉の意味は、アズールには理解できなかった。戸惑って、ただただ、デスドレインのぬばたまの瞳を見つめていた。淀んだ碧と残忍な黒とが交錯する。過ぎていく一秒一秒が、彼女には重たく、永く感じられた。自分と眼前の悪魔とだけが世界から切り離されたかのようだった。

 ……Caw……Caw……。

 暗く響き渡る陰鬱なバイオカラスの鳴き声に意識が覚め、アズールは虚脱感から抜け出た。辺りを見渡すと、血肉の臭いを嗅ぎつけたらしいバイオカラス達が瓦屋根のあちこちで羽根を休めて剣呑に二人を睨んでいる。

「ンー?せっかちだなァ、お前ら。まだ早ェよ。もう少し待ッとけ……なァ?」立ち上がったデスドレインがストークレイザーの方を見た。そして眉を顰めた。ズカズカと彼の元へ歩み、眺め、わざとらしく溜息をつく。「アーララ、死んじまッてら。根性ねェなァ、コイツ?」彼は振り返ってアズールに話しかけた。彼女は不思議そうな顔をして、宙吊り状態の凄惨な骸を見つめていた。

「……死んだの?」

「ア?見りゃわかンだろ」

 痩躯の男は枝めいた細長い指で屍をつつく。尚もジッと見つめ続ける少女を訝しみ、それから合点がいったような仕草をみせた。

「アー、アー。ナルホド。へへ……イイこと教えてやるよアズール。勉強の時間だ」

 バシャリ、ストークレイザーを拘束していたアンコクトンが液状化してデスドレインの肉体に染み込むように吸収されていく。骸の眼孔や口などなら流れ出てきた物も同様に。拘束から解放された惨たらしく損壊した屍体が瓦屋根に落ちて跳ね上がり、傾斜を転がっていく。五重塔から墜落していったそれを、バイオカラスの群れが追従していった。

 その光景を横目にデスドレインはアズールに近づき……極々自然な動作で腕を伸ばして、おもむろに彼女の細い首に手をかけた。

「かふッ……!?」

 突然に訪れた窒息感に息を詰まらせて、アズールは男の腕を引き剥がそうとする。デスドレインはニヤケながら緩やかに力を込めた。

「ニンジャってさァ、くたばッたら爆ぜちまうンだけど。じっくり苦しめてさァ、衰弱死させたら……死体。残ンだよ。こンな感じに、絞め殺したりしたら……へへへへ」

「……ッ!」

 絞める力が強まる。華奢な身体が強張る。少女の見開かれた碧い双眸が涙に潤うと、デスドレインは彼女の細首からパッと手を離した。少女は力なく座り込んで、激しく咳き込む。

「ゲホッ、ゲホッ!……ううッ……」

「へへ。マジに殺されると思ったか?アズールゥー……へへへへへ」

 涙目になってデスドレインを睨みつける少女に対し、彼は悪びれる様子もなく戯けてハンズアップし、手をヒラヒラとさせた。

「ヘヘ。へへへ。勉強になッたろ?」

「……」

 アズールは答えず、しかめ面で息を整えている。遥か下から聞こえてくるバイオカラスの鳴く声が騒々しい。屍肉を啄み貪る彼らの姿は美観を損ねる恐れがあるため、やがては役員らによって駆除されてしまうことであろう。デスドレインがそこらに散らばった肉片を摘み上げ、鳴き声の聞こえる方へ屋根上から戯れに放り投げてから、アズールの側に座った。

 彼は暫く無言で己の膝に肘を置いて、頬杖をついていたが……少女の呼吸が落ち着いてきたのを見やると、気怠げな声音で言葉を紡ぎ出した。

「……そういやよォー、アズール。お前、あン時言ってたよな」

「……?」

 空色の瞳が彼を見た。

「生意気な口利きやがッてな?ピーピー喚いて……『この人が死んだら、私を誰も連れて行ってくれない』……だッけ?」

 甲高い声で言葉を真似るデスドレインに、アズールは口を噤んで顔を背ける。彼は構わずに、ケラケラと嗤って言葉を続けた。

「ヘヘヘハハハ。俺、記憶力いいかもな?ヘヘ、へヘヘ……なァ、なンだよアレ。連れて行く?行きてェとこあンの?どこ行きてェんだ、アズール。タノシイランドでも行くか?」

「……わからない」少女は伏目がちに、か細く言った。「どこに行きたいかなんて、わからない。わからないから……助けてあげたの」吹き抜ける夜風に頬を撫でられながら、彼女の淀んだ空色の瞳は、遠くに広がるガイオンの夜景を、世界を、ぼうっと見つめている。「……あなたが死んだら、私はどこにも……」少女の物憂げな横顔をデスドレインはせせら笑った。

「へへへへ。ンだよそれ……どッか行きてェならテメェで勝手に行きゃいいだけなのによォ。でもダメか!お前、俺がいなきゃ何にもできねェもんな?どうしようもねぇガキだもんな……」

 言いながら彼はやおらに立ち上がって背筋を伸ばす。アズールがデスドレインを見上げる。

「じゃ、行くかァ」

 デスドレインが欠伸をしてから目を細くして、手庇で街を見渡す。アズールも立ち上がって、彼の隣に佇んだ。

「どこに行くの」

「知らね。へへ、いちいちンなこと考えてッからガキなんだ、お前。なんつうの?カンだよ、カン。取り敢えず行きゃいいンだ!へへへへ!」

 肩を揺すって笑い、デスドレインが少女の小さな肩に手を置いた。二人の周囲に暗黒物質が湧き上がる。彼はアズールをかき抱いて宵闇に向けて飛び出した。

「そンで、つまンなくネェならアタリ!ヘヘヘハハハ!」

 嗤笑をあげて五重塔から飛び降り、暗黒物質を波乗りめいて足元に纏わせて付近の高層建築物の屋上に着地。爛々と邪に瞳を染めて、デスドレインは屋根屋根を飛び伝っていく。ケダモノの直感と、凶悪死刑囚ゴトー・ボリスの邪悪な知性が彼を衝き動かしている。遠目に視界に入れた、見慣れぬタワーホテル。其処彼処のカネモチ・レーンの物々しい動き。ワカル。何があるかは知らない。だが、ワカル。

 飛び渡り続けた末に、商業ビルのひとつにデスドレインは暗黒を伴って着地した。先程まで破壊と殺戮を蒔いた五重塔は遥か後方だ。屋上の縁から眼下に広がる光景を見据える。複数の警護車両。リムジン。躊躇することなく、アズールを連れて飛び降りる。

 そうして、自由落下の空中でデスドレインは両手を大きく広げた。手離されたアズールは彼の痩躯にしがみついた。瞬間、暗黒の流動体が躍動し、彼らを包み込んで球形をとった。アンコクトンの球が夜を降下していく。

 光通さぬ暗闇のなか、デスドレインは猛禽めいて拘束衣を大きく広げ、己にしがみつく少女を覆うように包み込んだ。アズールはしがみつきながら、彼の顔を見上げようとした。暗黒のなかで、その表情は見えなかった。

◆◆◆



 落下の衝撃をアンコクトンの層が受け流す。足場ができたことを認識したアズールはデスドレインから手を離して、彼の側に立った。悪魔は嗤い声をあげて、暗黒物質の球形を解いた。流動する黒い汚泥が凄惨な破壊と殺戮の災禍を広げていく。

 リムジンから脱した綺麗な身なりをした男が、艶やかなドレス姿の女を庇って暗黒の触手に打ちのめされて遠くに転がっていく。女は悲鳴をあげてへたり込んで気を失う。暗黒が彼らについていた護衛を次々と屠っていく。少女の空色の瞳に残酷な現実が灼きつく。

 デスドレインは愉悦に顔を歪ませて、足場たるリムジンに流し込んだ暗黒物質で車両内部を弄った。蔦めいたそれらが不格好に外装を突き破って生えてくる。

「ア、アイエエエエ……!」

 それら暗黒の蔦のひとつが、拉げた車両内から重傷を負ったらしい運転手を引き摺り出していた。彼は息も絶え絶えに恐れ慄いた。

「ヘヘ、ラッキーだな?車ごとペシャンコにならずに済んで良かッたなァ」

 悪魔が顔をグッと近づけ、嘲笑う。暗黒の蔦が、リムジンごと挽き潰されたSPの肉塊を引き摺り出して、貪っていく。運転手は失禁した。

「ニ、ニンジャ……ニンジャ、ナン」「ラッキーついでにコレもやるよ!」「アイエッ!?」

 デスドレインが彼の顔に掌を差し向けた。次の瞬間、「アバッ!?ゴボボーッ!?」ナムアミダブツ!体内に暗黒物質を流し込まれ、運転手が壮絶な叫び声を上げた。その肉体が歪に膨張、直後破裂!「アバババーッ!!」黒と赤が混じった穢らわしいヘドロが飛び散り、カネモチ・レーンを醜く染め上げる!

「へへへ……そンで、コイツもラッキーだ」

 黒い蔦に絡め取られた汚れたドレスポーチと襤褸めいた紙袋を見やる。損傷しているが、完全に潰れてはいないようだ。蔦を己の側に近づけ、それらの中身を物色しだす。まず紙袋を破いたデスドレインは目を細くして、香水の詰め合わせを眺めた。不躾にスプレーボトルの一つを取り出し、アズールの方を見る。辺りに立ちこめる酸鼻な血肉の臭いや、硝煙の焦げ臭さのなかで、彼女は拡がる災禍を仏頂面で眺め続けていた。

「オイ、アズール」呼びかける声に、少女が振り向く。「ヘヘヘッ、ほらよ」デスドレインは悪戯に笑って、フルーティノートの香水を彼女に向けて吹きかけてやった。

「ンッ……!?けほッ、けほッ!」

 嗅ぎ慣れない鼻腔をつく香りにアズールは反射的に咳き込み、「なに、これ……?」それから困惑した。惨たらしい殺戮の場には凡そ相応しくない、モモやメロンめいた果実的な香しい匂い。自身やドレスから香るそれを怪訝そうにスンスンとかいで、眉を顰める。

「ヘヘハハハ。だから言ったろ、アタリだ。へへへ」

 デスドレインは戸惑う彼女の表情をケラケラと笑って、スプレーボトルを放り捨てた。何か言いたげな様子のアズールを遮り、デスドレインはドレスポーチの中から取り出した招待状を彼女に見せつける。それから愉快そうな声音で言葉を発した。

「見ろよコレ。パーティすンだッてよ、アソコで」

 彼は枝めいた指で、遠景のタワーホテル『リジェンシ・セッショ』の方を指し示した。淀んだ碧い瞳がそちらを見やる。遠目にも聳え立つ豪奢な建造物が視認できる。デスドレインは言葉を続けた。

「カネモチの連中がさァ、善良な市民から搾り取ったカネで自分たちだけ良い思いしてンだ。ムカつくよなァ、アズール」

 心にも思っていない言葉を平然と、つらつらと述べるその顔を、碧い瞳が見つめた。痩躯の男は良からぬ期待に眼を濁らせて、手にした招待状をひらひらと弄ぶ。

「へへへ……なァー、これカネモチしか入れねェのかな?俺らも行っていいヤツか、これ?なァ?」

「しらない」

 ぶっきらぼうに吐き捨てて、アズールはデスドレインから視線を逸らした。彼女の瞳は、アスファルトに倒れ伏す男女の方を向いた。女の方が、震えながら身を起こそうとしている。デスドレインもそちらを見やり、邪に眼を細くした。リムジンから飛び降り、ヤンク歩きに足を進める。彼の足元からは暗黒物質が沸き続けている。 

「うう……キ、キンジ=サン……」

 朧げながらも意識を取り戻したサヤラ・アタネは辺りの凄惨な光景に構わず、離れた位置に倒れ込んだサヤラ・キンジの方へと体を引き摺りながら向かい、必死に身を起こす。オーダーメイドのドレスは煤塵や血に染まって、汚れ切ってしまっている。子鹿めいて震えながら、なんとか立ち上がる……。

「ドーモォ」

「アイエッ……」

 投げかけられた声に背筋が凍った。腰が抜けかけるのを何とか堪えて、アタネは死に物狂いで駆け出した。声の方には振り向かない。決して見てはいけない。コワイ。見るのはキンジの方だけ。脚がもつれる。折れてしまったヒールを脱ぎ捨てて、裸足でアスファルトを走る。

 ……アタネは違和感を覚えた。次の瞬間には、彼女の身体は宙を舞っていた。暗黒の触手が彼女に巻き付いて、悪魔の元へとアタネを引き寄せていた。自由の効かなくなった身体を恐怖に震わせ、彼女は邪悪なニンジャの凝視を受ける。

「ヘヘヘ、ドーモ、ドーモ……」

「ド……ドーモ、アタネ、です……サヤラ・アタネ……」

 男の不遜なアイサツに、彼女は歯の根を震わせながら応えた。ニタニタと嗤うニンジャから眼を逸らそうとしたが、恐怖の感情に縛り付けられたアタネにはそれが出来なかった。悪魔は嗤う。

「ハハハハ!アイサツする余裕あンだな。それか平和ボケしてンのか?バカみてェな面ァしてるしな……へへ、俺ァ、デスドレインってンだ」

「デ、デス?ドレイン?」

「そーそー。デス(死)、ドレイン(排水溝)。ワカルカナ?俺にピッタリだろ……ヘヘヘヘヘ」

 別の触手が彼女の目の前に躍り出て、肉塊を貪り喰らう様を見せつけた。ドブじみた暗黒物質を見ながら、アタネは震えた声で言葉を紡ぐ。

「……デスドレイン=サン……お、お願いします。どうか、どうか……助けてください、見逃してください……!」

 涙を流しながらアタネは必死の形相で懇願した。眼前の邪悪存在が人語を介して話をしていることに、一抹の希望を託した。縋るほかなかった。

「頑張って、頑張ってきたんです……私も、キンジ=サンも!やっと、やっと幸せになれたんです!どうか、命だけは……!せめてキンジ=サンだけでも助けて……」

「ホォー、ホォー。努力してきてンだ、あンたら。そういうカネモチもいるンだな。へへ、イイじゃん、イイじゃん」

 言いながらデスドレインはアズールの方へ視線を送った。それから、離れた地点で倒れ伏すキンジの方を顎で示す。少女は頷いてリムジンから降り、スリングベルトに掛けたサブマシンガンを携えて彼の方へと向かっていった。その様子を、アタネは絶望に染め上げた顔で見つめることしかできなかった。

「アズール、ソイツはまだ殺すなよォー!オアズケだ、我慢しとけェ!へへへへ!」

 哄笑をアズールの背に浴びせる。少女は小さく舌打ちして、歩調を早めて行った。悪魔はアタネに向き直り、口を開ける。

「あのガキの面倒見てたヤツが、ガキ置いていきやがッたからよ。俺、アイツの世話してやッてンだ。ッタリィよ、マジで。ダリィ。そンで、最近女ァ犯せてねェンだ」

 長く黒い舌が、獲物を品定めするように舌舐めずりをした。怯え竦む女を濁った黒い瞳が粘っこく見つめる。

「まだパーティまで時間あるみてェだし。愉しませてくンねェかなァ?いいかな?いいよな?なァ?」

 ……女の絶叫と悲鳴、悪魔の嗤い声が宵闇に響く。サヤラ・アタネの幸福は潰えた。

#3へ続く

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