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【#ハリィしろかわのゆるゆる映画教室】第27回 戦後のハリウッドの苦闘 ①赤狩り

■1940年代、アメリカでは長らく続いていた不況を脱し、自国が戦場になることもなかったため、映画館には多くの人々が映画鑑賞に出向いた。
この時期はどんな作品を上映しても観客が集まるといった状況で、赤字になる作品など考えられなかったという。

しかし、第二次世界大戦終了後に、アメリカ映画界は次々と衝撃を受けることになる。
経済的・文化的・社会的・政治的な環境の変化に加えて、「テレビ」という新たな娯楽形態の誕生により、アメリカでも映画産業の勢いと成長が停滞し始めるのであった。

■まず、1947年に下院非米活動委員会(HUAD)がアメリカ映画界に乗り込んでくる。
同委員会の目的は、娯楽業界のエリート集団に共産党員が潜入していないかどうかを調査することであり、結果、250名のハリウッド業界人がブラックリストに載り、その大勢が共産党員やシンパを密告するよう強要された。
俗にいう、ハリウッドの「赤狩り」である。

そして、ハリウッドにおける共産主義の影響調査のための聴聞会での尋問にて、証言を拒否した10人の映画人(映画監督エドワード・ドミトリク、脚本家リング・ラードナー・ジュニア、映画監督・脚本家ダルトン・トランボ等)が議会侮辱罪で収監されるという事態になった。


■同時に映画監督エリア・カザンは、共産主義者の嫌疑を否定するために司法取引を行い、共産主義思想の疑いのある者として友人の劇作家・演出家・映画監督・俳優等の名前を同委員会に表した。この「密告」行為により、のちのカザンの経歴及び作風に暗い影を落とすことになる。

しかし、カザン監督作品で、犯罪組織の密告者(マーロン・ブランド)を主役に据えた「波止場」(54)は、カザンが仲間を売ったことへの批判に対する反撃と見られている。

また、同じマーロン・ブランド主演の監督作品「革命児サパタ」(52)でも、カザンは作中で共産主義に対する批判のメッセージを込めたと言われている。


■これら一連の「赤狩り」により、多くのハリウッド関係者が傷つき、キャリアを台無しにされた者も少なくなかった。

(つづく)

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