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知覧の地と、27歳

念願の鹿児島へ。知覧の地に。
日本人ならば生きているうちに一度は、行っておきたい場所です。
鹿児島中央駅からバスで1時間半と少し。多くの灯籠の立ち並ぶ中を抜けて、知覧平和記念館に到着しました。
中はテレビなどで見たことのある資料が多く展示されていました。
私がここに来たいと思ったのは、平和な日本に住む一人として。長男を産んだ歳、母の兄が祀られている靖國神社の遊就館にて見た一枚の葉書に号泣した思い出。
それと実は過去に、前世を見てもらったことがあります。もちろん興味本位で。。。本気にもしていなかったけど、心に残っていました。
私は早い生まれ変わりらしく、一番遠くて室町時代の町娘(お姫様では無い)そして、一番近い生まれ変わりは特攻隊に関する人ということでした。

あの靖國神社で葉書を見た時の長男は産まれてから、今27歳。
今回は27歳に焦点を当ててみようと思いました。
私の知識の無さか、特攻隊員の平均年齢は21.6歳。はるかに若い年齢層だった事に愕然としました。戦火が激しくなる中、戦争を続けてきた日本は、17歳や18歳の若者に至るまで戦力として使っていたのです。
既に27歳は大尉や中尉、少尉などの役職官でした。

宇津木五郎少尉 27歳 埼玉県
宮越 晴雄中尉 27歳 新潟県
蟹田  茂少尉 27歳    宮崎県
他にも27歳の方のお名前を書き写してきました。

そして、私の生まれ変わりに関わる事を一つ見つけました。
1945年5月24日この日は、他の日に比べ、より多くの特攻隊員が飛び立っていました。沖縄義烈空挺隊とその他含めて、87名の名前がありました。この義烈空挺隊は知覧ではなく、熊本から飛び立って行ったそうです。
沖縄の上陸を阻止する為に集められた若者達でした。彼らは体当たりではなく、特別の任務が与えられていました。
私の前世を見た人は、5月24日生まれの私のお誕生日が、この日であることを知っていたのかはわかりません。
そして、当然ですが、誰の生まれ変わりなのかを見つけることはできませんでした。
残された多くの手紙には、母を思う手紙が多くありました。最後の遺書には、もう何も言うことはありません。と言う言葉がちらほらと…
平和な時代を生きる私には、その時の若い彼らの気持ちを思い図ることもできませんでした。
平和記念館から外に出ると、外は土砂降りの雨でした。もしかすると、抜ける様な青空であったら、彼らの飛び立って行った空を見上げて、泣き崩れていたかもしれません。

これから、うんざりするほどの長い年月を生きる予定だった若者達。
平和な今を生かされる私達は、精一杯生きて行く事しかできないけど、生きたかった彼らの分も笑ったり、泣いたり、怒ったり、感動したり、誰かを何かを愛して、平和に感謝して、前向きに生きていこうと、改めて考えた知覧の地でした。

木下雄介投手⚾️27歳。彼も27歳。
ありがとうとか、ご冥福を祈るとか、まだまだそう言う気持ちにはなれないでいます。
ただ、もう今は、あの力一杯の投球を見ることが出来ないんだ…という現実があるだけ。
生きたかったであろう彼の分も、一生懸命に生きることしかできない。。。倒れたと聞いたあの日から、変わってあげたいと思っていたけど…本当に変わってあげたかった。

2021年8月

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