母を毒親と言うのは簡単だけれど
そんなタイトルにしつつ、母は間違いなく毒親でありその事実は覆らないことは先に書いておく。
じゃあ何が言いたいのかと言うと、
⚪️母は事実、毒親である
⚪️けれど母という人間に同情する側面もあり、そう言い切るのは酷かもしれないと思うこともある
⚪️だから毒親だと言うことは簡単だけれど、口にすると罪悪感がある
⚪️だからこそ、毒親だと言い切って他者から「そんなことはない、あなたがわがままなだけだ」と叱られるかもしれない(自分が間違っているんじゃないか)という不安がある
⚪️かといって母は毒親ではないと思いたくもない
つまり、
一人の大人として彼女という人間のことを考えると同情するが、一人の子供として彼女という母親のことを考えると許せない。
大人としてのわたしと、彼女の子供としてのわたしが相反することを考えていて、どちらの考えが世間一般的に?人として?正しいのか混乱し続けている。
そういう物事は「正しさ」がすべてではないとわかっているが、例えば彼女とのエピソードを雑記として公開したとき、それを読んだ人がどう感じるのか自分では判断できないという不安が常にあるのだ。
だから、一番コンテンツ力がありそうなのに母の話を日記にあまり書けないでいる。
■ わたしの母は毒親なのか?
小学生の時に「あいつ(父)と寝てるのか」と母親にぶたれた。
父親と一緒の布団で寝た記憶はない。
そもそもその時の母が言う「寝た」はもちろん睡眠の意味ではない。
父や母が添い寝してくれた記憶もほとんどなく、布団で寝ていた時期も、ベッドで寝ていた時期も一人だったのに、どうしてそう疑われたのかわからない。
この時点で「毒親じゃん…?」て思うわけだが、「いやでもこの一回で毒親と言うのは気が早いのでは」とも思う。
物心ついたときから、家政婦がほぼ住み込みで(家から3分のアパートから通ってくれていた)わたしの面倒をみてくれていた。
母も父も朝早くから仕事でおらず、ていうか同じ家に住んでなかった。
誕生日にパーティーを仕切る女の人が何なのか、「おかあさん」の意味がよくわかっていなかった。
授業参観にも来てくれないし、流れは覚えてないけれど校長室に呼ばれて隣に座ったり、小児科でわたしより喋る姿を見て「あっ、おかあさんてそういうことか」みたいな役割の気づきがあった。
低学年のころは遠い小学校に通っていたから、下校時はバスを降りたところへ親が迎えに来てくれる約束だった。
けれどほとんど忘れられていて、待っても待っても目の前に車が止まることはなく、バス停そばにある喫茶店のおばさんが心配してよくお店に入れてくれた。そこのスイートポテトがおいしくて、苦ではなかった(お金は後から親が払ったと思う…)
いつも、思い出したように母の職場の人が大慌てで迎えに来てくれた。
たまに、母がいつも使っているタクシーが停まって、見知った運転手の人が「◯◯ちゃん、迎えに来たよ」と誰も乗っていない後部座席にわたしを乗せたりした。(コンプラ的にありうるだろうか?私の記憶違いな気もするが、そんな記憶が確かにある)
(さすがにまずいとおもったのか、途中から徒歩圏内の小学校に転校したし、そのくらいから親が同じ家で寝起きするようになった。
同時に家政婦がクビになってフィリピンに帰ったので、わたしは遊ぶ友達もいないぼっち留守番ガールになった)
家族で旅行をした記憶はあるにはある。
塾に送り迎えもしてくれた。
いつからか「母親」を理解していたし、テストの答案用紙を見せて褒めてもらった記憶もある。
母の日にはカーネーションとプレゼントを受け取ってもらえた。
「私は働きたかったけどあなたのために仕事を辞めた」と、ことあるごとにわたしの大切さを説いてくれたし(※これは皮肉です)
母は母なりにわたしを育て、愛そうとしてくれていた。
だからネグレクトではないと思う。
そうなんだろうか?
母親と同居するようになってから、わたしが母の望み通りにならないとヒステリックに怒鳴られたり、竹製のものさし(定規📏のクソ長いやつ)でモノを叩く音で威嚇された。
時には針金のハンガーで、実際に叩かれる日もあった。でも痛みを感じるほどの強さではなかった。母も勢いで腕を振り下ろしたものの「強く叩いてはいけない」と理性のブレーキを咄嗟にかけていたのだろう。
裸足で夜の庭に放り出されたこともあれば、ブラウン管テレビを投げられたこともある。
「一緒に死のうか」に対して命乞いをした日も何回かある。
暴力が伴う虐待じゃないか?と思わなくもないというか友達がこれやられてたら「虐待だよ!!!!!!!!!!!!!(泣)」て思うけども、でも、でも母はわたしを愛そうとしていたから、虐待「だけど」と考える。
学校に馴染めず朝起きることをグズっても根気よく起こしてくれたし、遅刻ぎりぎりまで寝かせてくれて、車で学校まで送ってくれたことも多かった。
最後は不登校を許してくれて(母が「行かなくていい」って先回りしていたところには別の問題も感じるがそれは横に置こう)、毎日しっかりした食事を作ってくれて、スーパーの買いだしに付き合わせてくれて、毎回本屋で一冊好きな本を買ってくれた。どんな本だろうと何も反対せずに買ってくれたこと、今も感謝し続けている(わたしが何にもわかってなくて過激な漫画も読んでた)
基本的になんでもわたしファーストにしてくれていたと思う。あんまり記憶はないが、子供心ながらにそう感じていた。
母は極端で、優しいときとそうじゃないときの差がコウメ太夫の面白いときとそうじゃないときくらいある。
だから余計に、考えてしまう。
母はうつ病で、アルコール依存症だったのだと思う。
(診断が下りているわけではなく、わたしがそう思っているに過ぎないが、あれがそうじゃないならなんなんだのレベル)
母の子供時代も壮絶だったようだし、バブル時代とその後の経営も大変だったろうし、いつから持ち崩していたかわからないけれど、人生のメインパートだった仕事を手放し、右も左もわからないまま子育て専業主婦になったことが最終的にどうにもできないところまで彼女を追い詰めたことはなんとなく察する。
それに、わたし自身も普通の子供ではなかっただろう。
母はわたしのことを「反抗期もなくて育てやすかった」と言っていたし、わたしも親の面倒を見る子供(アダルトチルドレン)だった自覚があるので、「それはそう」と思うが、大人になって発達の偏りがあるとわかった身ゆえ、そんな人間の子供時代がクソガキでないほうがおかしい(極端な意見です)
それに、覚えている。
「おかあさんはわたしを産んだ肉親だけど、母親と思ったことはない」って小学生のとき言い放ったから壁に穴が開いたこと。
おまえそれはどんな母親でもキレるんよ。
母には母の苦労があり、自覚なくこころの病に侵された心身でありながら子育てしようとしてくれていたと思えば、あまり邪に言うのも酷に思うわけである。
わたしが自分のことを棚に上げて親ばかり責めていないか、とか。
ただやはり、何度でも言うけれど、
誰がどうなろうと状況を変える力のない子供に責任はないのだ。
彼女をかわいそうだと思っても、助けてあげられたら良かったのにと考えても、そのときの子供にできることなど無い。
できたとしてもそれは子供がしなくていい努力である。
そのときの周囲の大人が彼女に手を差し伸べるべきだった。
とばっちりを受けた子供は悪くないし、守られるべき。
あと……
お互いさまと言うつもりは一切ないが、すべて彼女が悪いわけではない、ということも認めてあげたい。
と思う!!!!!!!!!!
思っていいよね?
そう思っていい世の中であってほしい。
で、
ここまで書くと「じゃあ大人になったいま、母親が生きてるなら今からでも助けてあげれば?」と考える自分もいる。
「手を差し伸べられる年齢になったのに、何もしないならそれは薄情なんじゃないか」
「あの人は毒親だった、という言葉の蓑に隠れて親の老後の面倒を見ることから逃げているんじゃないか」
う゛う゛う゛ぅ゛う゛!!!!!(苦虫)
でも、母と会ったらわたしが壊れる。
正気ではいられない。だから会わない。
彼女とわたしの年齢を考えれば「こっちも求めないからあなたも求めないで」は不公平かもしれない。
でも会わない。
彼女の前では、何歳になってもわたしは「子供」だから。
それは言い訳でなく事実……だと思いたい。
いつか後悔するかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
わからない。
母を毒親と言うのは簡単だけれど、言ったところで誰も救われない。
普通の家庭に生まれたかったと考えたことはない。生まれてこなければよかったね。
子供がいるひとも、いないひとも、
子育てを助け合える世界になってほしい。