見出し画像

父を亡くしたときのことと今(前向きな日記)

大学卒業前くらいに、懐いていた父を亡くした。

倒れたという連絡をもらって行ったら、心臓のCTみたいなやつの前で「めっちゃやばい」ということだけは理解できる説明を医者から受けた。

何日か意識不明で、毎日だか数日おきだかバスで病院に通った。
親族の控え室みたいなとこで本を読んだり、食堂で飽きもせず冷やし中華食べたりしてた。
昔のことだからだと思うけど、ほとんどなんにも覚えてない。
何の本を読んでたのかも、何回父のベッドの前まで行ったのかも。
何日間くらいそうしていたのかも。


ある日、父方の家族も集まり、父のベッドを覗き込んでいるとき、父が急に目を覚ましてこっちを見た。
そして、そのまま目を閉じて息を引き取った。

人が死ぬところを初めて当事者として見た。
(死んだ後の人はその前にも見たことがある)
悲惨さのないそれが初めての死目撃体験なら、易しい体験だったのかもしれない。
とはいえ、記憶のカロリーとしては軽くない。
目を開けてこちらを見た父に、自分がかけた言葉が正しかったのか今でもわからない。あの瞬間の父は、私たちを見ていやなきもちにならなかったのかとか、どういう気持ちで再び目を閉じたのか、なんにもわからない。

医師による死亡確認が済んだあと、私以外の全員が集中治療室のブースから出て行った。
私は丸椅子に座って父を見ながら、何も触らなければ、何も言わずに、しばらく涙を流していた。

そこに小児科時代にお世話になった先生が来て、私を見るなり困ったように笑って何か声をかけてくれた。覚えてない。

そのあとの記憶は、バイト先に休む旨の電話をしたこと、それから、夜の病院で友達と電話してたこと。
母が通夜や葬式の準備でてんやわんやしている間、私は誰もいない暗い廊下で人と電話していた。
「めんどくさい」とか「早く帰りたい」とか、たくさん心無いことを話していたような気がする。
話した内容は覚えていないのに、静かな廊下に響く自分の声の意地悪さはなんとなく覚えている。家族を失ったときの心の働きのひとつだったとしても、ひどい娘だと思うし、ずっと悔やんでいる。
声に出したものは戻せないと学んだはずなのに、失言はいまだに多い。直らんね。


通夜は通夜じゃなかった。
母がキリスト教徒だから、教会で一夜過ごした。たぶん。記憶があいまい。
母の友達であろう知らないおばさんとか、神父だとか、いた気がするけど、ぼんやりと靴箱を見てた記憶くらいしかない。

どこかのタイミングで父の顔を見たが、生きてる人と死んでる人は明確に違うな、と思ったような気がする。

教会に、父の同僚が三人ほど来た。
家族葬と知っているがこの人だけでも参加させてやってほしいと、三人のうちの一人を指し、二人が母に頭を下げていた。
父は、死んだ後に駆けつけてくれるひとがいる人生を歩んだんだと、なんだかそればかりが私の胸に残っている。

なお、同僚の人たちは父がフィリピンで女を作っていたことを成人間近の私の前でしたので、必ずしも良い人たちだとは思っていない。彼らが「それくらいのこと」と話す姿から父のイメージも少し変わったし、母がそれに傷付いたであろうことも同時に察した。
人間には他面性があり、白か黒かで好き嫌いを語るのは難しいのだとこのときにやっとつかんだような気がする。


葬式もキリスト教式で、パイプオルガンの音がどこから聞こえていたのか覚えてもない。
みなさんで歌いましょう、と聖歌が流れるのも意味不明だった。知らない歌やぞ。
前方の左端の席で、ずっとうつむいて奥歯を噛んでいた。
起立と着席だけ。棺への献花もしなかった。
母の悲しみパフォーマンスとか、神道である父方の都合が無視されていることとか、ぜんぶにムカついていた。
父の死の悲しみから気を逸らすためだったのかもしれないし、本当に母に腹を立てていたのかもしれないし、両方かも。
同じ場面に戻っても私はまた同じ態度をするだろうが、父の葬式にちゃんと参加しなかったことも罪悪感がずっとある。


火葬のために訪れた斎苑のロビーでは、カノンがかかっていた気がする。ピアノだったのか、オルゴールだったのか、覚えてない。未だにカノンを聴くとロビーの壁や低いソファをうすぼんやりと思い出す。

火葬は思ったより長いような短いようなで、近くの喫茶店でみんなで何かを食べて待った。
私は何日か口をきかないままそこにいたし、そのあともずっと喋らなかった。

父の遺骨を見た。火力が強いのかあんまり人のシルエットが残ってなくて、よくわからなかった。喉仏が立派だとか、誰かがそんな話をしていた気がする。
長い箸に私も触れたのか、覚えてない。


山の奥に車で運ばれ、かまぼこみたいな形の墓に刻まれた「愛」の字に、死にたくなったりしたのがいつか思い出せない。
父がどう望んでいたのかも知らないが、死んだ後まで母のおもちゃにされて気の毒だと思った。

母は母で、葬儀をあげたり、死後の手続きをしたり、大変だっただろうし、疲弊もしたと思う。が、それを差し引いても言えることはない。

そのあと父を追うように飼い犬のチワワが死んだら、母は父の墓のそばに犬の顔が刻まれた墓を置いていた。私は考えるのをやめた。



時を遡り、母がキッチンで自殺未遂をしたとき。病棟で拘束された母を可哀想だと父が退院させたとき、私は父からも心のラインを引いた。
私は自分のことしか考えていないな、と人生のあらゆる場面で思う。

私が私なりの言葉で父とちゃんと話したのは、それが最初で最後だった。
そのときの私は、母が痛みで撒き散らしたうんちを、冷蔵庫とか床とか、タオルでいつまでもいつまでも拭きながら、リビングのソファに座る父へ「共倒れになりたくない」「私はもう大人だから、外に出して」という主張を静かにしていた。
父は、怒りも喜びもせず、逃がせるものは逃してやろうという、沈みゆく船の船員みたいだった。
後日、父に連れられて部屋を契約した。
父の車に少ない荷物を積んで、新居に連れていってもらった。三階か四階立てのこぢんまりしたマンションの一部屋。
父が部屋にあがったのはそれきりだ。メールをしたのも次の日くらいが最後。そのあと何度かちょっとだけ直接会った。誕生日のお祝いにゲーム機とボンタンアメをあげた記憶がある。

父と母が二人で過ごすようになって、どんな生活があったのか知らない。聞いてない。
ヒステリックに叫び、歌い、破壊する母の音を父は聞いただろうか。暴力はふるわれただろうか。話し合ったりしただろうか。案外平和だっただろうか。顔を合わせずにやりすごしていたりしたのだろうか。
とにかく父は、数年も保たなかった。私が大学生の途中で一人暮らしを始めて、卒業する前に亡くなっているのだから。
前兆はあった。背中の痛み。
なぜ病院にかからなかったのか、知らない。関わろうとしなかった。
父は犠牲になったと思っている。母と、私の。


夢に父が出ることはしばしばあった。
陽光が差し込む父の部屋で、もういない父に泣いて謝り続ける夢。
居心地の良い夜カフェで、父と座れる席を探し続けて目を覚ます夢。
父にたくさん話をして、目を覚ましてわんわん泣いたりした。
父と話そうとして、ちゃんと話せなくて苦しい気持ちで目覚める夢ばかりだった。


ここからが主題なんだけれど、
父のことをこう夢に見て、もやもやと思い出すのは、自分の罪悪感の問題なんだろうなとずっと思っている。

で、
父に許してもらいたいわけではなくて、私が自分を許してやりたいんだと思う。
薄情かもしれないが、私の思考はそういう動きをしている。

父は亡くなっているし、私は死後の世界(つまり冥福)や霊を信じていないので、父に対してどうするか悩むフェーズはとっくに終わっている。

後ろめたさを感じるたび、私にできるのは自分自身がその感情に対してどう対処したいかを考えることだけだ。

私は自分を許して、定期的にモヤモヤする時間を他に使いたいのだと思う。

で、今朝、いつもと違うテイストの夢を見た。

父がお寿司を食べていて、私がそこに飛び込んで「私も食べたい」って一緒のものを食べて、早々に「やることいっぱいあるからもう行くね」って友達と空港に走る夢だった。

夢に意味を見出すのもあまり意味ないと思うけれど、同じ夢を何度も見るタイプの私だからこそ、新しい夢が入荷されると変化を感じる。

父がどんな気持ちで生きて死んでいったのかわからないし、もしかしたらああで、もしかしたらこうだったかもしれない。
そういうことも考えるけれど、答えの確かめようのないことを考えたところでな…とも思う。

父から得た言葉とか経験とかを、私の人生で消費するほうが、もうちょっとなにか、意義があるような気がする。

罪悪感で自分をモヤモヤボコボコさせることをやめてもいいんじゃないか、と思うこのごろの自分を受け止めることを、許してもまあ、いいんじゃないか、みたいな、そういうことを、朝の夢で思いました。
もう十年くらい経ってるし。

それっぽくまとめて気持ちを切り替える理由を作るの、ずるいかな。
この日記書いてたらわりとさらに「薄情だし自分勝手だな」って思ったけど…。
よかろうもん。いまここに父はいない。私がいるだけ。
そして、自分の醜いところも含めて父から学び得たものがある。

そんな感じ。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切: