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27歳、去年とは違う私が花火を見た

 好きだった人に告白してから3カ月が過ぎた。毎日その人のことを考えていたのに、考えない日々が続いている。さみしい日々はちょっとずつ遠ざかって、以前のひとりでも平気な私に少し戻ったみたいだ。

 先々月、仲の良い会社の同僚が私の住む町にやってきた。彼は学生時代の先輩でもあり、気心の知れた相談相手だ。noteもきっとやっているだろうが、知らないことにしよう。

 場所は私の通っているバーだった。彼の雰囲気が、あまりバーの落ち着いた雰囲気に合っていないので、過去2回この町に来たときはあえて連れてこなかった。繊細な心の持ち主で感受性が豊かなのに、なぜか話すときは声が大きすぎて、この人周りが見えていないな、と不満に思う。

 それでも私にとって大事な場所だから、一緒に来た。私はジントニックを飲みながら言った。「あんなに想っていたのに、今はうそみたい。相手にとって自分じゃないんだとわかったとたん。かなしくないことが、かなしい」

 彼はうれしそうに柑橘系のロングカクテルをすすっていた。「かなしくないことがかなしい、いいねえ」と笑って、ある文豪の作品を薦められた。登場人物が私と同じような感覚に苦しむらしい。その人との思い出の場所にいて、その人のことを話しているのに、つらい気持ちにはもうならないのだった。

 実家へと帰る高速バスのなかで(前々回のnoteも、このバスのなかで書いた)読んだ本に、こんな一節があった。

「誰かを愛すると、もっといい人間になろうとする深い刺激を、自分のなかに引き起こすような気がする」-ミハエル・ナスト「大事なことがはっきりするささやかな瞬間 関係づくりが苦手な世代」

 ドイツ人の作家は言う。今まで彼が付き合ってきた女性は、自分の我欲を超えたいという気持ちを自身に呼び起こした、と。もっといい人間になろうとする可能性を、「私たちはうまく利用しなければならない」。

 私の経験は恋愛というカテゴリーとしてはけしてうまくいかなかった。不幸な失敗だったことは間違いない。告白に失敗したので、始まってすらいなかった。失敗を予期して事前にいろんな有能な友達に相談して、なんとかソフトランディングできた。あらゆる飛行機は着陸という名の墜落に向かうという言葉にどこかで出会ったが、さいわいにして自分の心が壊れることはなかった。

 しばらくつらかったけれど、伝えてよかった、という思いは消えない。私の姿はかなりイタかったかもしれないけれど、気まずい思いをさせてしまいそこは彼に申し訳ないのだけれど、少しでも伝わったのだと感じた。

 自分にほんとうの言葉を与えてくれた存在だ、と思っていた。私がいまの私になる土台をつくってくれた。それなら私も何かしたいし、返したい、その人の孤独と向き合いたかった。でもその相手は私じゃないんだ。それなら、もう納得だ。早々にかなしさを手放してしまって引け目に感じるけれど、それが私という人間の根の明るさによるものだから、しょうがない。

 私も少しは我欲を乗り越えることができたんじゃないか、と思いたい。生まれて初めて、その人のために用意した言葉で、「私が」話したいと思った。人生の目標が「愛されたい」、じゃなくて、「愛したい」に変わったのだった。

 バーで同僚と話し込んでから数日後、誕生日を迎えた。27歳になった。仕事や人生について、一気に焦りが湧いてきた。具体的に「アラサー」にカテゴライズされる数字だ。

 それでもできることは少しずつ増えている。キラキラしたSNSの世界に晒せるようなものは何もないけれど、自分の足で歩いている感覚がある。それは仕事も生活も、恋愛も一緒なのだと思う。

 私は男の人をほとんどしらないけれど、それで引け目を勝手に感じることも多いけれど、いつか自分が愛したい、という思いを伝えたときに受け入れてくれる人がいたらとてもすてきだと思う。たぶん、人生で1回だけで十分すぎるし、一生続かなくてもいいぐらいだ。

* * * 

 先日花火大会があったのだけれど、1年前に同じ花火を見ていたときの私とは、全く違う私になった気がした。自分にしかわからないぐらい地味だけど、少しだけ能動的にアップデートされている。

 フィナーレが終わったとき、空に火花がしばらく残る。オレンジ色の無数の点々が明滅し、徐々に薄くなって、糸みたいに流れながら消えていく。そこに死ぬこととか、人の命の、人間関係の終わりを感じるから、毎年花火は見なきゃ、と思う。私も1年ずつ、毎年毎日毎秒、死に向かって流されながら歩いているんだけれども。(つづく)

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