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【即興小説】 喪服姿の女性の

 葬儀を終えた帰りだろうか、隣に座った喪服姿の若い女性の手の甲に、黒いマジックペンで、

『ファブリーズ 詰め替え』

 と書かれてあった。『つめかえ』でも『ツメカエ』でもない。律儀に漢字であった。『ファブリーズ 詰め替え』と書かれたその手で、中華そばを手繰っている。一杯三九〇円の、日高屋の中華そばを。
 緩くまとめられた髪から後れ毛が、血の気の薄い色白のうなじにかかっている。身近な誰かを看取った憔悴というよりは、日常の一部として儀礼的な葬式をこなしたあとのような、その日一日だけの疲れが覗いていた。
 まさか黒々と『ファブリーズ 詰め替え』とメモをしたその手で合掌したり、焼香を上げたりしたはずはない。散会になったあとで、ふと思い出して走り書きしたのだろう。そうだ、そういえばファブリーズ切れてたんだった。帰りに詰め替え買わないと。
 あるいは僧侶の長たらしい読経を神妙に聞き流している途中に、あれこれ雑念が入り込んできて、不意に思い出したのかもしれない。そうだ、ファブリーズ切れてたんだった。帰りに詰め替え買わないと。でも忘れちゃいそうだな。早くお経、終わらないかな。しきそくぜーくう、くうそくぜーしき。うーん、なんだか眠くなってきた。困ったな。忘れないようにしないと。ファブリーズ詰め替えファブリーズ詰め替えファブリーズ詰め替え。ぎゃーてーぎゃーてー、はーらーぎゃーてー。
 そうしてようやく読経が終わって出棺、火葬場へ移動という頃合いを見計らって早足でトイレに入り、慌てて『ファブリーズ 詰め替え』と書いたのかもしれない。お香典に名をしたためる薄墨の筆ペンではない、黒のマジックペンを持ち合わせていたのだ、この人はそのとき、たまたま。
 中華そばを食べ終えると彼女は、このあと自宅に帰る道すがら近所のドラッグストアに寄って、真っ直ぐに消臭剤の棚を目指して歩いていく。そして迷わずファブリーズを手に取り、買うだろう。ボトルではなく詰め替え用の液体を。帰宅し、喪服を脱いでハンガーにかけ、ひと息ついた彼女は、ファブリーズの空きボトルに液体を詰め替えて、脱いだばかりの喪服にシュッシュと噴霧するのだ。その日一日の疲れとともに、抹香臭さを脱臭する。
 よもや、生々しい死の匂いを取り去ろうというわけではあるまい。その手で殺した男の匂いが、いつまで経っても消えないのだとしたら。幸いまだ誰にもバレてはいないけれど、手に染みついた死体の匂いが、感触が、否が応にもあの人の最期を思い出させる。誰かに気づかれる前に消し去らなければ、この匂いを、死臭を。そんな焦りが『ファブリーズ 詰め替え』と書かせたとしたら……。
 死を悼む相手が誰であれ、その死の状況がどうあれ、この世に残され生きている者の営みは続く。喪服を脱いで、ハンガーにかけ、ファブリーズでシュッ。

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