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自分がときめく・喜ぶことだけをやっていく。

自分の心を騙すようなことをすると、ほんまエネルギーが奪われる。
このことは理屈で十分にわかってたつもりだったけど、なんてことはない、自分の中にも確固としたそれがあった。


しかも、かなり根強いやつ。長年ずっと無意識にこなしてきてたから、そこにほとんど疑問も抱いていなかった。来るもの拒まず、で引き受けてきていたこと。自分にできることはこれしかないと思い込んでいたから、それが盲点になっていた。


これだから、思い込みってやつは厄介なのだ。しかも自分のこととなると、なおいっそう目が曇る。


このことをじっくり掘り下げていくことをやってみたら、どうやっても自分の心がときめいてないことをしていることがわかった。それを誤魔化して今までなんとかこなしてきたけれども、自分の心がクリアーになっていくに従って、その違和感がこれでもかこれでもかと浮上してきたのだ。自分に起こる出来事が、悉くその感情を浮上させてくるのだ。


それでもそれに見て見ぬ振りをして続けていくことの方が、どう考えても簡単なことだ。自分が我慢していけばいいだけのことだ。だから、散々葛藤した。それでもその答えはあまりにも明確で、そこから逃げることはもう嫌だ!と思った。それに伴って湧き上がってくる恐怖感はなかなかに強靭なもので、震えて涙が出た。失うことへの怖れ。未来への不安。自分の可能性に対する心配。


それが辛いならばその恐怖から目を逸らし、なかったフリをして、今までのやり方を続けていけばいいだけのこと。


しかし。
それこそがまさに、自分を騙すということだ。
自分の心に逆らうということだ。


自分の心に従うことを信条としているわたしが、おまえこそ何をやっているんだ、って話になり。


そして決断に至った。めっちゃ怖かった。失うものは金額的には大したものではないのに、継続的な安定を失うことへの恐怖が、ぶわああああっと出てきた。どれだけ自分が今まで、その安定に依存してきたのかということだ。


だけどこれは反面、自分がどれだけそこにエネルギーを費やしてきたかということでもある。費やしてきたというより、漏らしてきたという方が妥当か。


自分がときめかない、やりたくもないことをすることは、自分のエネルギーを漏らすことに等しい。つまりは、命の無駄使い。そういうエネルギーの使い方をしているから、本来自分がやりたいことに向けるエネルギーがなくなるのだ。それを充分に理解しているつもりでいたのに、まさに盲点だった。自分が当たり前にやっていることにこそ、それは隠れている。


人は、やりたいことをするよりも、やりたくないことをすることの方が楽なのだ。


なぜなら、自分の心を欺けばいいだけのことだから。そこにどうにか正当性をくっつけて、それを見ないようにして我慢すればいいだけのことだからだ。


心からやりたいと思えることを行動に移すときには、その前に必ず、乗り越える何かが出現してくる。それは怖れであったり、常識を打ち破ることであったり、罪悪感であったりする。そこにきちんと向き合って受け入れるか、あるいは乗り越えなくては、自分が心から望む道は開かないようになっている。


それが怖いから、多くの人は現状維持を貫こうとする。加えて、自分が求める結果が得られるかどうかわからない不安があるから、そこに挑むことから逃げようとする。



そういう生き方を、わたしは今後一切選ばないと決めた。
自分のエネルギーは、自分がときめく・喜ぶことにしか使いたくない。自分が楽しめないことをしてただ漫然と命の無駄使いをする生き方なんて、命に対する冒涜でしかない。

決断し、それを宣言したことで、わたしは今、とても軽くなった。
自分が細胞から軽くなるような、この感覚。エネルギーの流れが良くなったような、この感覚。


さあ、変容への道。



※去年の今頃に行っていたモロッコの写真を置いてみた。帰国したのは、ちょうど今日くらいではなかったか。たった一年でわたしの内面は大きく変わった。だけどまだまだ、こんなもんじゃないって思ってる。


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