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ブッダが説いたこと

マイ仏教本(なんだそれ)、昨年のイチオシはなんといってもパユットー師の「仏法」でしたが、今年のイチオシはコレです!
という本の紹介を、2022年のいっぽん、にしたいと思います♪
昨年も参加させていただいたのですが、今年はこの新しい記事を。
ハスつかさん、今年も開催していただきありがとうございます😊🙏

とかって、今年読んだのか昨年だったのかは、定かではないんですけど笑
手にとったのは昨年だったかもですが、心にきてるのは今年、ということで。

ワールポラ・ラーフラ著 今枝由郎訳
「ブッダが説いたこと」

がっつり仏教本です♪
こころにとまった言葉を抜き出しての所感を書いていきます。

まずはこれ!

すべての悪の根源は無知であり、誤解である。
第1章 仏教的な心のあり方

そうまさにこれです♪
無知、無明でなかったら、いつでもどこでも正見です。真実の見方ができる。
貪瞋痴、という煩悩が生じてしまう原因や苦しみは、ここにあるんですね。
私たちはものごとをありのままに見ることができていないんです。
基本ものごとを理解していません😂
もし、ありのままに見ることができていて理解できているなら、煩悩は生じず苦しむこともないんですね〜。
正見、ここを鍛えていくと、苦しみが減っていきます。

次はこれ!

第一の真理 ドゥッカの本質
 最初の真理は一般的に「ドゥッカの本質」と訳されており、仏教においては「人生はドゥッカ(苦しみ)、痛みに他ならない」と解釈されている。しかしこの訳も、そしてこの解釈も、どちらも極めて不十分で、誤解を招くものである。事実、この原語〔ドゥッカ〕の意味を部分的にしか伝えない、不適切で、安易な訳語と、その表面的解釈が、多くの人に仏教は厭世的だという誤ったイメージをもたせることになった。

仏教は現実主義
まず最初にはっきりと言えることは、仏教は悲観主義でも楽観主義でもなく、しいていえば、生命を、そして世界をあるがままに捉える現実主義である。仏教はものごとを客観的に眺め、分析し、理解する。仏教は誤って人びとに人生は楽園であると思い込ませたり、ありとあらゆる想像上の不安や罪の意識をかき立てて、恐がらせたり苦悶させたりしない。仏教は人間と世界のあるがままを正確に、客観的に説き、完全な自由、平安、静逸、幸福への道を示すものである。

人生には苦しみがあるが、幸せも否定できない
ブッダが、「人生には苦しみがある」と言うとき、彼はけっして人生における幸せを否定しているわけではない。逆にブッダは、俗人にとっても僧侶にとってもさまざまな精神的、物質的幸せがあることを認めている。ブッダの教説をまとめたパーリ語の五部経典の一つである増支部経典の中には、家族生活の幸せや隠遁生活の幸せ、感覚的喜びによる幸せやその放棄による幸せ、執着による幸せや無執着による幸せといった、さまざまな肉体的、精神的幸せが列挙されている。しかしそれらはすべてドゥッカに含まれる。さらには、高度な瞑想によって得られる、普通の意味での苦しみの片鱗すらない、非常に純粋な精神的次元も、またまぎれもない幸せとされる次元も、心地よさあるいは不快さといった感覚を超越し、純粋に沈静した意識の次元も、すべてはドゥッカに含まれる。同じく五部経典の一つである中部経典の一つのスッタ〔経〕では、瞑想の精神的幸せを賞賛したあと、ブッダは、
 「それらは無常で、ドゥッカで、移ろうものである」
 と述べている。ここで注意しなければならないのは、ことさらドゥッカという用語が使われていることである。普通の意味での苦しみがあるからドゥッカなのではなく、「無常なるものはすべてドゥッカである」からドゥッカなのである。
第2章 第一聖諦 ドゥッカの本質

引用長い♪
人生は苦である。の、苦、が、苦しみと訳されたことによる誤解。
いわゆるドゥッカ、は、苦しみという意味だけではなく、同じ状態を保てないこと、と、ホームさん(仏法の講義をしてくださった先生です)は説明されていたと思います。
また、パユットー師の仏教辞典には、
苦しみ。耐え難い状態。圧迫し、矛盾し、不完全で実体と真の安定に欠け、真の満足を与えない状態。
と、このように書かれてあります。

ここは、三相、無常苦無我の説明にもなっちゃうところなんですけど、ものごとにはすべてこの三つの相がみられちゃう。みたいな♪
ものごとは皆、うつろいゆく変化していく性質をもち(無常)、その性質は不安定で決して満足できるものではない(苦)。また、それらはすべて一時的に成り立っているようにみえるものである(無我)。ここは私の理解ですね。無我は説明もですけど理解が難しいんです〜。
誰も誰かのものと言えない、主はいない、誰もこのようになれと命じることはできない、というようなこと、とホーム先生はおっしゃられていたと思います。

人生楽ありゃ苦もあるさ、は、水戸黄門。
世間諦ですかね〜

3箇所目は、第3章をとばして笑、第4章から。

ニルヴァーナは今の生で体現するもの
 ほとんどすべての宗教においては、最高善は死後にしか到達できない。しかしニルヴァーナはこの今の生で実現することができ、到達するのに死を待つ必要はない。
 真実、ニルヴァーナを体現した人は、世界でもっとも幸せな人である。その人は、他の人たちを悩ませている、あらゆる煩わしさ、強迫観念、心配、問題から解放される。彼は心的に完全に健康である。過去を悔やまず、未来を思い悩まない。彼は、今というときを全力で生きる。それゆえに、彼は肩肘張ることなく、もっとも純粋な意味でものごとを味わい、享受する。彼は喜びに溢れ、意気揚々とし、純粋な生を楽しみ、五感は心地よく、不安がなく、晴朗で安らかである。 あらゆる利己的な欲望、憎しみ、無知、うぬぼれ、奢り、汚れから解放され、純粋で、やさしく、博愛、慈しみ、正直さ、同情、理解、寛容に富んでいる。彼は自己という概念をもっていないので、他人への奉仕はまさに純粋である。彼は自己という幻想、生成の渇望から解放されているがゆえに、精神的なことも含め、何一つ得ないし、集積しない。
 ニルヴァーナは、二元論的、相対的なことばを超えたものである。私たちの一般的な善悪、 正邪、存在と非存在という概念を超えている。 次の文脈ではニルヴァーナを形容するのに「幸せ」ということばが用いられるが、それは普通の意味とはまったく異なった意味で用いられている。
 シャーリプトラが言った。「友よ! ニルヴァーナは幸せなり、ニルヴァーナは幸せなり」
 ウダーイが尋ねた。「友シャーリプトラよ、感覚がないのなら、幸せとはどんなものですか」
 この問いに対するシャーリプトラの答えは、非常に哲学的で、普通の理解領域を超えている。
「感覚がないということ自体が幸せである」
 ニルヴァーナは論理と論証を超えたものである。ニルヴァーナ、究極真理、実存に関してどれほど論議を尽くしたところで、それは時間の浪費で、本当の理解には達しない。幼稚園の子供は、相対性理論を論議すべきではない。そうせずに、辛抱強く熱心に教科を学習すれば、ある日理解に達することができるだろう。ニルヴァーナは「賢者が自らの内に体現すべきものである」。もし私たちが、八正道を根気よく熱心に歩み、自らを修練し、浄化し、必要な精神的発展を遂げれば、高尚な、わけのわからないことばを操ることなく、ある日ニルヴァーナを内に体現できるであろう。
それゆえに、次にはニルヴァーナに至る道を見てみることにしよう。
第4章 第三聖諦 ドゥッカの消滅

苦の滅のところで、ニルヴァーナ出てきました。
涅槃。
言葉にできない究極の言葉なんじゃないかな〜。

でもここ

「真実、ニルヴァーナを体現した人は、世界でもっとも幸せな人である。その人は、他の人たちを悩ませている、あらゆる煩わしさ、強迫観念、心配、問題から解放される。彼は心的に完全に健康である。過去を悔やまず、未来を思い悩まない。彼は、今というときを全力で生きる。それゆえに、彼は肩肘張ることなく、もっとも純粋な意味でものごとを味わい、享受する。彼は喜びに溢れ、意気揚々とし、純粋な生を楽しみ、五感は心地よく、不安がなく、晴朗で安らかである。 あらゆる利己的な欲望、憎しみ、無知、うぬぼれ、奢り、汚れから解放され、純粋で、やさしく、博愛、慈しみ、正直さ、同情、理解、寛容に富んでいる。彼は自己という概念をもっていないので、他人への奉仕はまさに純粋である。彼は自己という幻想、生成の渇望から解放されているがゆえに、精神的なことも含め、何一つ得ないし、集積しない。」

こうなりたい♪
でもそれ以上に、すべてのことを知りたい理解したい欲求、探究欲の方が多めではありますが。

でも少しなら理解できます。
自分自身のことでわずらっていない、感覚。とても楽。ちょっと違うかも🤭

、、、次!

 以上ざっと見てきたところからわかるように、八正道とは、一人ひとりが、自らの人生において、歩み、実践し、開発する道である。それは、身口意の自己規律であり自己啓発であり、自己浄化である。それは、信仰、崇拝、儀礼とは無関係である。この意味において、それは一般的に「宗教的」といわれるものとは無縁である。それは道徳的、精神的、知的完成を通じての、究極の実存、完全な自由、幸せ、平和に至る道である。
 仏教国においては、宗教的行事にはシンプルで美しい慣習や儀式があるが、それらは本当の「道」とは無縁といっていい。しかしこうした慣習や儀式にも、修行の初期段階にある人びとのある種の宗教的感情や要求を満たし、彼らの道のりを助けるという点において、それなりの意義は認められる。
第5章 第四聖諦 ドゥッカの消滅に至る道

「八正道とは、一人ひとりが、自らの人生において、歩み、実践し、開発する道である。それは、身口意の自己規律であり自己啓発であり、自己浄化である。それは、信仰、崇拝、儀礼とは無関係である。」

ここね、そういうことですよねって🙏
これは本当に最近、実感してます。
自分自身の道であること。

仏道は、八正道ですが、これは一人一人が歩む道なんですね。
人が人に命令して歩ませる道ではない、と言いますか。
私の八正道でしかない、と言いますか。
自己、自ら、自ずと、これって不思議な言葉ですが、自分や自己の自、って、自然の自、なんですよね。自ずとそうなっているもの、それが自己ですから、やはり自分は自分のものではないですね。
仏教は、無我を説きますが、自己というものでその自己を超えていく道を歩むと言いますか。そんな感じですね。

確固とした自己はないんです。
自己は、縁起で一時的に成り立っているものですね。
心コロコロ。師匠が教えてくださった言葉です。
これが私、と思いたい心はありますが、心は不安定です。
そんな私の時もあるし、こんな私の時もある。
でもなんとなく、なりたい自分になることができるのは、人間だけな気がします。
だから、ここは諦めるところではない。
ですけど、なりたい自分になれるとも限らない。
私たちは結果がほしいですけど、私たちが関わることができるのは
原因と条件をなるべく整えていくところだけで、要するに過程の部分だけで。
結果は結局、不確実。
そこを理解しておくこと、でしょうと思います。

でも、どうでしょうか。私たち、いつも気にして仕方がないのは、結果ばかりですね。
何かを得たい、得ようとする心、でしょうと思います。
この心を、過程(原因と条件)の方へ向かわせることって大事ですね。

だから、戒が土台。
戒はまさに、農業でいうと土づくり、土壌づくりだと言われますよね。
悪いことはしない、善いことをする。です😊
でも、こればっかりでも芽は出ないし、実もなりませんね。
定(ジョウ)、心を鍛えていくことです。
実際に悪いことをしない、善いことをするって、意外と難しいことです。いつも自分の心を見張っておく必要がありますね。ついうっかりしてしまう私です。
そして慧を養う。智慧を鍛えていくっていうのかなあ?これは真実の見方なのかと見ていく。苦が生じているなら、それは真実の見方をしていないんだな、と理解することができると思います。

でも誤解のないように、信仰、崇拝、儀礼とは無関係とは言えども、それによって心救われる人や仏教へ関心を持つ人もいますから、それが意味をなさないということではない、ということです。著者もそのように書いておられますね。

次は無我のところです。

人びとは、アートマンに関するブッダの教えによって、彼らが想像していた自己が破壊されることになると思い、神経質になった。ブッダにはそれがわかっていた。
 あるとき弟子が尋ねた。
「師よ! 内なる永遠のものが見つからないとき、人は苛まれるということがありますか?」
「弟子よ、それはある。 ある人がこう考えたとしよう。
「宇宙はかのアートマンであり、私は死後、永遠で、不変で、永続的で、不易なそれとなろう。そして私は永遠にそのようにあろう」
 その彼が、ブッダあるいはその弟子が、渇望の消滅を目指して、また執着を離れたニルヴァーナを目指して、〔自分の〕推測的な見解を完全に打破する教えを説くのを聞いたとしよう。彼は、
「私は無に帰される。私は破壊される。もはや私は存在しない」
 と思うだろう。そして彼は嘆き、心配し、泣き、胸を叩き、打ちのめされるだろう。こうして、内なる永遠のものが見つからないと、人は苛まれることがある」
 また他の箇所で、ブッダはこう言っている。
「弟子たちよ、私は存在しないかもしれない、私は所有しないかもしれない、と思うと、一般の人は恐怖心に襲われる」
第6章 無我(アナッタ)

ここは引用するか迷ったところですが、でも知っておいた方がいいところだと思いました。

「弟子たちよ、私は存在しないかもしれない、私は所有しないかもしれない、と思うと、一般の人は恐怖心に襲われる」

そうなのだなと。
私は無我を聞いた時、とても気が楽になったし、心の自由度が増した気がしました。
でもそうじゃない人々が多いのだと知っておくことは大事なんだなって教えていただきました。
それを聞くことによって恐怖が増すということは、生命を圧迫することにもなるかもしれないなって、注意が必要かなと思いました。
書いといてなんですが。。

これは最近どっかで書いた気もするんですけど、無我は、自己探究によって、私とは何なのかという探究によって、知りたいと思う人が知ることができる、発見することができるのだろうと思います。

第7章へ〜

一般に人は自分が今行うことに、あるいは現在に生きていない。人は過去あるいは未来に生きている。
第7章 心の修養(ヴァーワナー)
今まで述べてきたこと以外に、伝統的には四〇に分類されるテーマに関する瞑想がある。
その内で特筆すべきは、

(1)「母親が自分の一人子を愛する」ように、すべての生きものに対していっさいの区別なく、無限の普遍的愛と善意を向けること
(2) 苦しみや問題を抱え、苛まれているすべての生きものを慈しむこと
(3) 他人の成功、安楽、 幸せを共に喜ぶこと
(4) 人生の浮き沈みに平静であること

である。
第7章 心の修養(ヴァーワナー)

今を生きることと、慈悲喜捨の瞑想実践だと思います。

ほぼ今を生きていないんですよね😂
1日でも1時間でもいいので本気で自分が今やってることを観察してみると発見があるかもしれません。
そして、慈悲喜捨の実践をやっていくと気づくことがたくさんあるんです。主には自分の我執に多く気づけるのではと思います。

私自身の毎日の修行はこの二つだと言うこともできます。自分1人で行うことは気づき、今ここにいることです。そして人と接したり関わる時には、慈悲喜捨の実践しかないなあと思ってたりします。
なかなか難しいことですが、学びのある修行です。

ここの章は、実際に仏道実践している人にとって役に立つところだと思いますので、お勧めの章です。

そして!
第8章〜

ここまで書いてしまうと読まなくてもいいんじゃないか、となってしまいそうなのですが、、いやいやほんのわずかなことを紹介しているだけなんですけど、長い😂
読んでて飽きちゃってる人もいるかもですね。
ここは在家で仏道を歩む方にぜひ読んでいただきたい章だなと思ったところでした♪

仏教はあまりにも高尚で、崇高な教えで、今日の仕事中心の世界に生きる普通の男女には実践できず、本当の仏教徒になるのには、仕事を辞めて僧院や静かな場所に隠棲しなければならないと考えている人たちがいる。
これは悲しいことながら、ブッダの教えを本当に理解していない人たちの誤解である。これは、仏教を完全に理解せず、断片的で偏った側面しか伝えない人たちから仏教のことを聴いたり、そういう人たちが著わした仏教に関する著作をざっと読んだりして、早急に導き出された、誤った結論である。
第8章 ブッダの教えと現代
誰にでも開かれた教え

ブッダの教えは、僧院の僧侶たちだけでなく、家族と一緒に家庭生活を営む普通の男女にも向けられたものである。八正道という仏教の生活規範は、いっさいの区別なく、すべての人に向けられたものである。
世界の大半の人は、僧侶にはなれないし、洞窟や森の隠者にはなれない。仏教がいかに高尚で高貴であっても、現代における日常生活で実践できないものなら、それは意味がない。しかし仏教の真意を(ただ字面ではなく) 正しく理解すれば、普通に家族生活を営む現代人でも確実に実践できるものである。
第8章 ブッダの教えと現代

ここが、私たち在家で仏教を、仏道を歩む者にとって、出家されているお坊様からの励ましのお言葉と言いましょうか。
ありがたいお言葉と言いましょうか。
そのように受け取られました🙏

このように感じられるのは、実際に、自分自身が仏道を歩むと決めて(だんだんそのようになってきたのですが)、ここ在家の身で仏教を実践していく中で、森に入る必要はなく、人を避ける必要もなく、人々との生活の中で学んでいけるものだと、実感があるからだと思います。

確かに、日々忙しい仕事ばかりしていて疲れきった心身では、なかなか難しいところはあると思います。
ただ、仏道を歩んでいくと大切なことが見えてきます。そして戒律の中に、どのように仕事、というものを捉えていくのか、という項目もあります。
自分自身が生きる上での指針のようなものが仏教であった時、次の選択がシンプルで善であることが増えていく、そのような感じもあるんですね。
もちろん、間違うことは多々ありますが、そこからまた学ぶ姿勢も養われていくのが、私にとっては仏教である、と言えてしまいます。

最後に、面白い項目があったので紹介します。

「国王の十責」

ここでいう国王は、現代の文脈では当然政府と理解されるべきもので、「国王の十責」は、今日の政府首脳、大臣、政治指導者、司法官、行政官に適用されるべきものである。

(1) 気前のよさ、物惜しみのなさ、施し。支配者は、富と財産に対する渇望と執着をもつべきではなく、人びとの福利のために富と財産を施すべきである。
(2) 高い道徳性。支配者はいかなる場合も、命を傷つけたり、騙したり、盗んだり、人を搾取したり、不倫をしたり、嘘をついたり、酒を飲んだりしてはならない。 つまり、在家仏教徒としての五戒は守らねばならない。
(3) 民衆の福利のためにすべてを犠牲にすること。 すべての個人的快適さ、名声、命までも、民衆のために捧げる。
(4) 正直さと誠実さ。任務の遂行に当たって恐れやえこひいきがなく、決意が固く、民衆を騙さない。
(5) 親切さ。 性格が優しいこと。
(6) 生活の厳格さ。シンプルな生活を営み、贅沢な生活に耽ってはならない。自分を律しなければならない。
(7) 憎しみ、悪意、敵意を抱かない。誰に対しても恨みを抱いてはならない。
(8) 非暴力。ただ単に誰をも傷つけないというだけに留まらず、すべての戦争、暴力、命の破壊を阻止し、予防することにより、平和を促進すること。
(9) 忍耐、許し、寛容、理解。腹を立てずに困難、試練、中傷を耐える。
(10) 無反対、無妨害。 民衆の意思に反対しない。人民の福利をもたらすいかなる措置をも妨害しない。つまり、民衆と調和して統治する。※

ある国が、こうした資質を具えた人たちによって統治されたなら、その国は幸せであることは言うまでもない。しかしこれはユートピアではない。インドのアショーカ王のように、この原則に則って王国を樹立した王たちもいる。

※  インドの外交方針であるパンチャシーラ、すなわち平和五原則は、紀元前三世紀にインドの偉大な仏教王アショーカが帝国の統治に適用したものと精神を同じくする。パンチャシーラ(五戒、五徳目)ということば自体が仏教用語である。 
第8章 ブッダの教えと現代

インドのパンチャシーラも勉強になりました。
これできる人、政治家にいますかね?
政治家のみならずこのような方は、、稀でしょうね。
特に3番目と7番目の項目は、難しいんだろうな、と見えます。いや、全部難しいか😂
一言で言えば賢く優しい人、智慧と慈悲で政治を行ってほしいですね。理想すぎる〜😂

もし政治にこれから関わろうという人がいらっしゃいましたら、ぜひここを参考にしてほしいですね♪
政治家もですけど、みんな自分自身が置かれているところでどう生きるのか。ここしかないなあと思います。

心に留まったところを書き出して紹介してみました。私の所感も書かれていますが、それはさておき、この本はとてもお勧めですから仏教に興味のある方はぜひ読まれてみてくださいませ〜😊🙏

今年もあと2週間くらいですね。
今年もたくさんの方にお世話になりました。
ありがとうございました🙏😊

皆様がよいお年を迎えられますように

生きとし生けるものが幸せでありますように

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