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寄り添う心

高齢父が入院して手術。今後の治療方針も父に寄り添ったものでと思っています。
私自身が「寄り添う」ということを学ばせていただく機会かなと思ったので、少し書いてみようかなと思いました。。かなかな。。

いえ、noteが5月中に書いてみたらとのことでしたから書いてみました🫢
27ヶ月目?だそうです。

私たちは普段、世俗ごとで生きているので、いろんなことをコントロールしたいという心で、自分や周囲を管理しつつ生きています。
不満足の状態をなんとか満足な状態にしたいと頑張って生きているなと感じます。

頑張って生きていても、どうしようもないことがあります。
それは、老いていくことだし、治らない病気だし、死んでいくこと。
頭ではわかっちゃいるけど、若くいたいし、健康でいたいし、死にたくないですよね。

治る病気は治せばよい。最近では老化も病気だとの認識で、アンチエイジングが治療と認識されることもありますが、、私にはよくわかりません😅

思ったことがあります。全ての病気が予防できたとしたら、私はいったい何で死ぬことができるのだろうか?
老いなければ死なない。こんな状態で生き続けるとしたら?
身体がずっと生き続ける。これは可能でしょうか?

さてさて、話は戻ります。
父との時間もそろそろ終わりが近づいているなあって、ここ数年、特に今年の春頃からなんとなく感じていました。まあ、私が先に死ぬことも可能性としてはゼロではないのですが、確率としては父が先に逝くのだろうなと。
姉妹に連絡して、そろそろお別れする心の準備を整えた方がいいかなあなんて、なんとなく思っていたところでした。

寄り添うって、難しくないですか?
日々、色々と管理しつつ生きていると、そのままにしておくことや置いておくことなどがどんどん難しくなっていく気がします。
なんとか、自分の思い通りに変化させたい!と、頑張るんですよね。
sati(気づき)の実践を訓練せずに日常を過ごしていると、煩悩の力が強まっていく感覚があります。
反対にsatiの実践を意識しつつ日常を過ごせていると、落ち着いた心の力が発揮できる機会が増える感覚もあります。

寄り添う時に、煩悩で寄り添おうとしても、長続きしないというか、苦しみつつの無理やり感があったりして、父の苦しみと共に居られない感覚、とても苦痛に感じられる気がしています。
少しsatiを意識しつつ、その瞬間の寄り添う心って、やはり慈しみというか、受容の心というか、少し心が父からは離れているけれども、その隣に共にいることができる。そんな感覚がある気がします。

言葉で表現することはとても難しいのですが。。

自らが苦しまずに、苦(ドゥッカ)と共にいることができる

寄り添うってそんな感覚かもしれないなあなんて。

そおいえば、、
いつもご法話をしてくださっているタイのお坊様、スティサート師が教育ファシリテーション研究所の深掘りシリーズ「縁」で仰られていたことです。

「心を苦しませないでいい。
心を苦しませないでいることは、世界の環境にとって1番よいこと。」

まことにそうだろうと。

私の今の心境でした😊🙏

生きとし生けるものが幸せでありますように

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