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「デスストランディング」考察最終回:いのちは繋がっている

この心理的未成熟の状態を抜け出て、自己の責任と自信とに支えられた勇気を持つためには、いったん死んでよみがえることが必要です。これが普遍的な英雄の旅の基本的なモチーフです――ひとつの状態を去り、より豊かな、より成熟した状態に達するために生命の源泉を見つける、というのが。

ジョーゼフ・キャンベル&ビル・モイヤーズ「神話の力」飛田 訳

あの恐ろしいDS現象は、クジラたちによるDOOMS能力による攻撃だった。

この説はいまだ疑いは大きいにせよ、DSが何故起こったのかということと、そして何故終わった、あるいは終わったかのような演出が描写されたのかという両面に、いちおうの説明をあたえる説だろう。

ラスト・ストランディングへ向かうアメリのビーチ。
このまま先彼女があの海の先へ行ってしまったとき何が起ころうとしていたのか、それを暗示する存在が彼らであり、つまり単純に受け取るのならBTの正体とは彼らということになる。

結局は多くの部分は本編中には描かれていなかったが、しかし背景としておそらく画面には映されていたのではないか。ゲーム中に散らばった様々な要素を結び付け、僕なりの答えを考えたのがこの「ヒト・クジラ戦争説」である。

しかしこの説をさらに積極的にそうであったと言える説に押し上げるためには、実際にこのゲーム中の謎として提示された部分について、この観点からの解明ができなくてはならないだろう。

もしもクリエイター側がこうした謎解きを仕込んでいるのなら、その回答が明示的にもわかるように出来てなければならないからである。

もちろん多くのすぐれた物語と同じように、それはただパズル答えとして納得出来たら終わり、というものではないはずだ。これらの作品としてのテーマ性が、その物語の設定でだけ議論できるものではなく、僕ら現実の人々にとってもその人生と結び付けて考えられるような、繋がりがなくてはならないからだ。

その現実につまされるような問題性を含むために、すぐれた創作物の作品性というものは、より深みを持つのだと僕自身は思っている。

さて未だ残された問題として、なぜBTは死体によってこちらの世界に繋がることができたのかということ。そしてなぜ主人公のサムは帰還者になってしまったのかということが、その大きなものと言えるだろう。

いままで説明してきたこの説に則って考えれば、BTとはクジラのDOOMS能力であり、あのネクローシスした死体やBTの臍帯の向こうには、クジラが存在していたということになる。つまり、死後の世界とは海の中である。

海が人の魂が還る先、また来る場所と考えると、このゲームの”ビーチ”という概念はまず説明がつくはずだ。またボイド・アウトによってたくさんの魚やカニが、あちらから来るということも。

これらがただ演出上のメタファーではなく、実際に人の死と誕生に関わっているという論拠は、BBの被検体であった主人公サムの記憶のシーンにある。

父クリフによってポッドから出されたサムは、その逃亡を阻止しようとしたブリジット大統領によって撃たれ、親子共々死んでしまう。同時に彼らの死の瞬間、ビーチではそれをアメリが見つけ駆けつけていた。

このシーンで注目してほしいことは、クリフがサムを抱いた状態から撃たれ、ほとんど同じように崩れて絶命したというのに、彼ら親子がビーチの海の側と浜の側両方に分かれてビーチにいたという点である。

浜にいた赤子のサム。
なぜか彼は浜辺に打ち上げられており、一緒に死んだクリフは海の中である。ハートマンのシーンのようにこの赤子が海の側へ這って行ったり、また引きずられていくということもない。

アメリがたどり着き浜へ打ち上げられたサムを抱き上げたとき、海の側に呆然と立つクリフの姿を見ることができる。

両者の死はほぼ同時と考えられ、また二人が同じビーチにいたことは、その悲劇が彼らを強く結び付け一種の戦場のビーチのような空間を作り上げたからだろう。そしてそうであれば、二人は並んで海へと行ったハートマンの妻子のように、サムをクリフが抱いて海へ入るという演出が妥当なはずだ。

しかしあのシーンにおいて、彼らの存在はバラバラにおかれていた。しかも直前の演出を考えるなら、サムの視点は海から上がりそして浜に上がったことになる。ご丁寧にその海には彼らの姿が映っており、死んで黒くなったクリフの肉体の姿も確認できる。

赤子のサムの死亡シーン。
本編中では死ぬとこの結び目のような空間にドボンと上から落ち、その奥に漂うサムの身体がみつかる。しかしこの赤子のサムの死亡シーンでは、カメラは海底からこの結び目に上っていき、水面を越えて浜辺に座礁したサムの身体を見つける。

この現象をはっきりと説明するのなら、先ほどの人の側の死と誕生という状態を、さらに正確に定義する必要があるだろう。

ここでいう誕生とは、卵子が受精し胚として成長する過程ではなく、明確に出産のときである。だから受精の段階から人間は、魚の胎児、両生類の胎児、爬虫類の胎児のように成長し、そして最終的な出産において真に陸上生物としての魂を得るというふうに説明する必要があるだろう。

だからあの世界の地上生命は死ぬと海へ、生まれると陸上での生を受け、それが循環していると考えられる。そして人間の胎児のような未だ羊水に浸かっている状態では、まだ水生生物の状態と見なされるのだ。

おそらくあのシーンでアメリがサムに”かえりたい?”と尋ねるのは、父クリフの元へだろう。彼女は一旦傷口を塞ぎサムの身体を修復するが、その海の向こうのクリフを見て思い直したと考えられる。

クリフのいた場所、海へとその息子を還すアメリ。
その後のブリジット大統領の態度とは矛盾しているようにも思うが、ここではアメリはあくまでサム本人がどこへ行くべきか考え、そして彼女の思うクリフいるの死の側へ帰したのだろうと思う。

これは個人の印象論になってしまうが、あの一瞬の表情はかなり深い意味のあるものである。言葉の分からない赤子に何度か尋ね、”大丈夫”と念を押すのは、それが真にサムのためだと考えたからだろう。無責任に生かせばいいという、単純な考えからではないはずだ。

しかしそのアメリの行動は、現実世界で全く逆の効果をもたらした。彼女が死の世界=海へ手放したつもりであったサムが、なぜか帰還者として蘇生してしまった。

なぜならいまだ胎児=水生生物としての生命を持っていたサムは、その海の側に行くことが羊水の中で生きるということだったからだ。

彼らはサムが帰還者となった理由をあの世との臍帯が切れたことだと考えているが、おそらくちがう。彼は水生生物としての生命も陸の生き物としての生命のどちらも持つため、ビーチの境界を越えるということが生死の意味をなさないのである。

こうした冥界や死後の世界でもまた生命の営みがあるという考えであれば、死者の側からも臍帯を使いこちらへ繋ぐということの説明がつく。

人間側から見た死者=クジラ側においても、生命の誕生を辿ってまたこちら側へ影響を起こすことができるのだ。彼らから新たに生まれる胎児の魂は、陸側からくる。しかしその誕生の境は、水の側からはもう少し遡る。

彼らにとって羊水に浸かった胎児もまた、水の生の側であった。だから彼らにとってのビーチを越える最も劇的な瞬間は、卵と精との結合の瞬間、胚の発生の段階である。

そして、そのために彼らがその最も大きなDOOMS能力を発揮させられる瞬間も、そうした精子と卵子、男と女、陰と陽、陸の魂と海の魂が接触する瞬間ということになるのだろう。

ボイド・アウト。
これらはおそらくクジラの死のイメージからなされ、しかし彼らの生命の発生の意味もある。精を受けた卵子はその後、指数関数的な、まさに爆発的に新しい細胞を生み始める。
”昔、爆発があった。この生命は爆発で生まれた”

サムという人間はアメリに地上での生命を分けられた状態で、ビーチの海の側へ帰され胎児として蘇生した。おそらくその彼の両方の生命が作用して、彼をいつも陸の生命として死から復活させてしまうのだろう。

そして陸での生命は人よりわずかであるために、ボイド・アウトの爆発もその力が小さなものとなってしまうのだ。

昔の人々や、ネイティブアメリカンなどの人々の考えかたに、トーテミズムというものがある。ある動物が彼らの祖先であったり、魂そのものと考える考えかただ。

その生命が死ねば自分も死んでしまうとか、その生命は自分の祖先たちだから殺してはならないなど、彼らはタブーを持ってその動物を保護してきた。彼らにとってその動物は神聖なもので、かけがえのない存在だという物語をもっている。

しかし面白いことは、彼らもべつにその身近な動物を、必ずしも食べなかったわけではないということだ。アイヌにおけるイオマンテという儀式のように、彼らは自分たちに繋がりのある神聖な動物を、彼らの犠牲に謝りながら、あるいは感謝して食べることもあったんだ。

それは一見矛盾しているし、理解しがたいものだろう。でもおそらく彼らはそうして、自分たちに身近で食べなければならないような動物に、むしろ命の繋がりを感じていた。

神聖視されている動物を食べるのではなく、食して命を与えてくれる生き物こそが、神聖な存在なのである。

人は石や木をなぜ食べられなくて、動物の肉や芽吹いたばかりの植物、そしてその種子が、なぜその命を繋げるのか。それは生命というものが形を変えて、この自然の中を循環するからに他ならない。

死は絶望ではなく、新たな命にその意味をつたえていく。だからこそ、いのちは繋がっているんだ。

座礁地帯では死んだ魚やカニがあらわれ、急速に植物が生え枯れていく。
もののけ姫のシシガミの登場を思わせるこのシーンは、あの映画でも描かれるように死とは生のまた一面であるという事を描いている。死して地に落ちた一粒の麦から、また多くの実りがもたらされるのである。

2022/12/22

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